左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。位階は正三位。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
生涯
米沢藩士族・左近司政記の三男として米沢市片五十騎町に生まれる[2]。7歳の時に家族とともに大阪に転居し、叔父で弁護士の左近司六蔵の養子となった。いわゆる"米沢の海軍"の一員である[3]。妻は旧幕臣小島守気の娘。
海軍予備校より海軍兵学校(28期)に進む。席次は入校時116名中79番、卒業時は105名中8番。日露戦争中は水雷艇や砲艦などの小型艦艇乗組を務める。左近司は海大乙種、水雷学校高等科をともに首席卒業した水雷専攻の士官である。第一次世界大戦中はオランダやイギリスに駐在し、ヨーロッパ各国の戦争で疲弊した現状を見聞した。帰国後は軍務局長、海軍次官など軍政部門の要職を歴任するが、大佐時代に戦艦「長門」の艦長であった際、僚艦「陸奥」との衝突事故を起こした。この時左近司は進退伺いを提出したが、連合艦隊司令長官・鈴木貫太郎が左近司の将来に配慮し事なきを得た。しかし、「陸軍大佐」のあだ名で呼ばれることとなる。ロンドン海軍軍縮会議では首席随員を務め条約締結に貢献したことから条約派と目され、伏見宮博恭王ら艦隊派が主導した大角人事により予備役に編入された。
その後第3次近衛内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。東條内閣総辞職後に焦点となっていた米内光政の現役復帰に関し、難色を示した同期生の永野修身を説得している。鈴木内閣における左近司は、対立する陸相・阿南惟幾と米内を仲介するなど中心的存在であった[4]。第二次世界大戦末期、最高戦争指導会議の議論が和平と戦争継続とに割れ、多数決次第では本土決戦による戦争継続があり得る事態となった。左近司は終戦へと導くべく、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言し、二人はこれを受け入れ日本のポツダム宣言受諾が決定した。米沢海軍武官会会員。
戦後の1947年(昭和22年)、公職追放の仮指定を受けた[5]。
人物像
- 理知的に物事を進める人物で、近衛文麿に気に入られ第3次近衛内閣の閣僚に加えられたが、物事をはっきり言う左近司は近衛にとって煙たい存在になり、内閣総辞職後は近衛と特に繋がりがあった形跡はない。
- 高木惣吉にとって左近司は、兵学校及び練習艦隊での恩師であり高木は尊敬の念を抱いていた。左近司は高木が行っていた終戦活動に協力していた。
- 海兵同期の永野修身とは親友の間柄だった。終戦時、自決を決意していた永野に「生きることこそあなたの責任だ」「責任者がこんなにどんどん死んでしまって誰が陛下を戦犯からお守りするのだ、貴様は辛いだろうが生きていろ」と諭して思いとどまらせたという。
親族
- 義弟 小島秀雄海軍少将
- 娘婿 山澄忠三郎海軍大佐 (海兵48期・連合国の厚木進駐に際し、日本側の委員長を務めた)
- 甥 関 衛海軍中佐
年譜
栄典
- 位階
- 勲章
GHQ歴史課陳述録
- 鈴木内閣の終戦努力 1949年(昭和24年)5月20日
- 鈴木首相の終戦努力について 1949年(昭和24年)5月20日
- 1945年初夏に於ける政府の和平態度 1950年(昭和25年)3月21日
- 鈴木内閣の和平態度について 1950年(昭和25年)3月21日
脚注
- ^ 『人事興信録 第8版』 https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-9352
- ^ 『米沢市史資料 第十二号 続 米澤人國記 <近・現代篇>』 p.169-p.170
- ^ 『波まくらいくたびぞ』pp.149-161
- ^ 『海は白髪なれど』所収の迫水久常の手記
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
- ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。
参考文献
関連項目
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