尾道
尾道(おのみち)は、広島県南東部、瀬戸内海に面する地。本項では旧尾道市市街地について述べる。 中世に荘園大田庄の倉敷地として開かれ、近世に広島藩の台所と呼ばれ、近代に造船業が活気だった「港まち」「商人のまち」である[1][2]。 中世に畿内との物流が始まり日明貿易・朱印船貿易の港、近世に西国街道と出雲街道(石見銀山街道)の宿場・西廻海運の港、近代では国道2号と山陽本線、現代ではこの近郊で尾道バイパス・山陽新幹線に山陽自動車道と西瀬戸自動車道および中国横断自動車道が交わる「瀬戸内の十字路」である[3]。 地元豪商や歴代守護者あるいは将軍足利氏による庇護・寄進により数々の神社仏閣が建立された「寺のまち」であり、尾道三山の峰を中心に神社仏閣、海に下るにつれ住宅地、そして商業地となり、尾道水道付近が港湾施設が形成された[1]。また地形的制約の中で市街地が拡大したことから、南は尾道水道まで、北は尾道三山の麓とくに神社仏閣の境内ギリギリまで人家が発達し、複雑に入り組んだ路地や坂道が形成された「坂のまち」である。そうした情景を多くの文人が作品に残し、現代では映画・アニメなど映像メディアに重用される、「芸術文化のまち」である[1]。 こうしたコンパクトな地形の中で発達し文化的に成熟したことにより風景は変化に富み「箱庭的」様相を呈する[4]。 地理瀬戸内海のほぼ中央[3]、中国地方の広島県南東部にある。南側が水深約10m・幅は狭い所で約200mの一見すると河のような細長い海峡である尾道水道[5]、北側は尾道三山と言われる通称の千光寺山(大宝山/136m)・西國寺山(愛宕山・摩尼山/116m)・浄土寺山(瑠璃山/178m)に挟まれた、東西に伸びる細長い町である[6]。尾道水道を挟んで南側が芸予諸島の一つ、向島になる。
2010年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
気候は瀬戸内海式気候であり、降水量は比較的少なく温暖な気候が続く[7] 中国地方特有の地帯構造として、南西-北東方向つまり右肩上がりで山列・構造谷が発達しているが、尾道でもそれが見られる[8]。小起伏の山地・丘陵地の一部が急斜面で尾道水道に接し、また急斜面ぎりぎりまで市街地が発達している[8]。地質は、花崗岩と平野部が沖積層になる[9][6]。花崗岩質の山がフィルターとなり良質な地下水に恵まれていた[10]。沖積層は花崗岩風化残留土であるまさ土などで形成されており、市街地の久保町-三軒屋町付近で厚さ5mから30mとみられている[11]。中世から商業地として発展してきたことにより、沿岸部の埋立が進み海岸線が南へ移っていった。中世以前の海岸線と近世以降に埋立造成された土地では1mほどの高低差がある[12]。 流れ込む河川は二級河川栗原川など小規模なものしか存在しておらず、河川が作った沖積平野が小さいため平地が乏しい[8]。尾道水道は、潮流が速い[6]。かつては栗原川から土砂が流出して河口で堆積し、その一部が満潮になると潮流によって東側へ運ばれ向島の東側では南から北へ潮流が流れるため山波沖で巨大な洲が生じた[13][2]。港の東西に浅瀬ができてしまうため、各年代で浚渫・埋立・築港してきた歴史がある[13][2]。 由来尾道の名の由来は、一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『芸藩通志』によると
かつてこの地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことから、この名がついたと言われている[15][16]。その他には、神功皇后が海に近い地にカラムシで道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説[16]、比較的新しい説で司馬遼太郎が唱えた船の航路を意味する澪から「澪の道」が転訛した説[15]、その他にも説がある。 尾道の名が出てくる最古の資料は、永保元年(1081年)に書かれた『西國寺文書』の中の「尾道浦」である[17]。 別名に、千光寺玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。ただし玉の浦は他の地とも言われている[18]。「尾路關」「和奴密智」の他に、宋希璟『老松堂日本行録』には「小尾途津」[19]とある。 沿革古代古代尾道は、小さな集落として存在していた[17]。尾道の東にある松永湾で縄文時代・弥生時代の貝塚跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている[20][21]。また周辺島嶼の古墳時代の遺跡から製塩土器が大量に出土しており、この頃から周辺島嶼で塩作りが盛んに行われていた[20]。 国郡里制下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある[22]。飛鳥時代、郡の中心は尾道の北にある御調(尾道市御調町)にあり、そこには官道(古代)山陽道が通り駅家もあったとされる[20]。ただしこの地方では瀬戸内海での海路が発達し、庸・調税の輸送も海運が利用されるようになると、官道より海路が重要視されるようになる[20]。8世紀から海路整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦(三原市)が整備された[23]。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。 山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。 浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。 また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]。 港町の成立平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている[31]。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)白河天皇の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった[32]。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる[17]。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇(院政)により勅願寺(官寺)となり、山陽道随一の伽藍を誇るようになった[32]。 尾道の北にある現世羅郡世羅町には平安時代に「大田庄」という荘園があり、平氏政権が樹立された時代平重衡の荘園だった[17][33][25]。ただ荘園からの年貢を運び出すための倉敷地(港)は存在していなかったため、下司は尾道を用いたいと嘆願を上げていた[16][17]。永万2年(1166年)重衡は大田庄を後白河院に寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた[17][33][25][31]。「港町」尾道の歴史はここから始まる[17][33][34][2]。 文治2年(1186年)後白河院は大田庄を高野山(金剛峯寺)に寄進、尾道も高野山領となる[17][25]。大田庄の年貢である米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった[33]。また建久5年(1194年)高野山は大田庄へ半畳12帖貢納を命じており[35]、この頃から筵・畳(備後表)が作られていたことになる。これらの運搬は荘官の下で任務にあたっていた“問”“問丸”“舵取り”等呼ばれた海運業者が行っていた[33][31]。文永7年(1270年)から尾道の港で独自に津料(関税)を徴収している[31]。 寛元3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼淵信を預所として派遣し、年貢米の輸送と管理にあたらせた[17][31]。淵信はここから30年近く尾道を管理し、弘安9年(1286年)浄土寺別当となっている[31][37]。この頃になると淵信は尾道で権力を持つとともに高野山の意思とは別に独自に動き出して莫大な富を得ていた[33][17][37]。ただ淵信は正安2年(1300年)公文百姓から訴えられ預所から退いている[37]。荒れ果てた浄土寺が西大寺の定証によって中興されるのはこの時期である[37][38]。 中世の尾道は、現在の尾道本通りあたりが海岸線だった[39]。長江・十四日と久保の2つに入江があり、入江を中心に港町が形成された[39]。遺物の出土状況から、13世紀から14世紀初頭の尾道の中心地は、浄土寺や西國寺を後背に持つ坊地口周辺であったと考えられている[17]。入江の集落から傾斜地の寺社に向けて小路が繋がっていた[39]。この頃から尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した[17]。そして海賊(交易品を強奪する盗賊ではなく水先人として通行料を得ようとするもの)が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた[33][37][40]。 備後守護所は鎌倉時代初期には瀬戸長和庄(福山市)にあり、長井貞重が治めていた[37]。文保2年(1318年)西国悪党を鎮圧する目的で京都(六波羅探題)から使節が尾道に派遣されたが、雑掌はそれを拒否した[37]。使節は翌文保3年(1319年)に帰洛するが、その1ヶ月後に悪党がいるとして守護貞重は尾道に代官円清高を派遣した[37]。このときの尾道の人口は5,000人を超えており[34]、代官清高らは数々の悪行をし、仏閣社殿数カ所と政所・民家1,000戸あまりを焼き払った[37]。高野山が院に守護貞重の狼藉を訴えたことで収まった[37]。のちに長井氏は守護所を尾道に置いた[37]。 中世の繁栄鎌倉時代の尾道における交易品は塩や鉄・布製品など[47]。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた[40]。中国山地で生産された鉄(たたら製鉄)が沼田小早川氏の三原(三原市)まで運ばれ刀鍛冶として育っていき、小早川氏等への供給による利潤獲得のため尾道でも刀鍛冶が行われるようになった[47]。天平年間(729年から749年)から創業した“其阿弥家”は現在でも存続している[48]。当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている[40]。また石工が発達したのは鎌倉時代後期から室町時代にかけてで、現在重要文化財に指定されている宝篋印塔や五輪塔にはこの時代に造られている[40][49]。また問丸(海運業者)は他領の年貢輸送も行っており利益を得ていた[34]。 建武3年(1336年)、建武の新政後九州に落ち延びる足利尊氏は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上(建武の乱)の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している[17][25]。尊氏が鞆(福山市)で光厳上皇の院宣を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことになる。この鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた[50]。現在尾道で行われている吉和太鼓おどりの起源は諸説あるが、一説には尊氏が尾道から九州に向かうときに水先案内人を務めたのが吉和の漁師たちで、尊氏の戦勝を祝って踊ったのが始まりとされている[45]。 応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた[31][33]。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった[33]。港には陸奥や筑紫から交易船が来ていた[31][33]。歌島(向島)や生口島など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した[51]。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は室町時代から活発化したことがわかっている[17]。 この地は中国地方を勢力下においた山名氏が支配していたが明徳の乱で室町幕府に敗れ没落した。この頃、将軍足利義満が天寧寺に宿泊[52]、応永2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷地頭職、そして尾道・倉敷を高野山西塔へ寄付している[25]。応永の乱の手柄により再び山名氏が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく[33]。 日明貿易が始まり、尾道にも遣明船が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた[33]。発掘調査において、この年代の地層から瀬戸焼・常滑焼・備前焼・東播系須恵器のほか、中国青磁・白磁、朝鮮陶磁器も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている[17][40][47]。 この時代に、将軍足利氏による新たな建立や西國寺が守護山名氏の庇護で再建されるなど「寺のまち」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた[31][53][33]。特に現在時宗の寺院が6ヶ寺あるのも尾道の特徴である[17]。
室町後期から戦国時代までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく下克上の時代である。この地を掌握できる位置にいくつか城が築かれている[50]。またこの時代この地域の特色として因島を拠点とした因島村上氏(村上水軍)の存在がある[33]。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている[33][50]。 これらの勢力は中国覇権を目指した毛利氏の傘下となった[62][34]。
近世の栄華戦国時代後期、尾道は毛利氏の支配下に置かれた[47]。毛利氏は自分の家臣を配置したのではなく、尾道の豪商たちと私的な主従関係を結ぶことで尾道を支配した[47][64]。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から代官を決め、商人による自治は続いた[62][47]。花隈城の戦いで敗れ毛利氏へ亡命してきた荒木村重が尾道で隠遁しており、古寺の庵で茶の湯を嗜んだと伝わる(尾道へのわび茶文化の伝来)[65][66]。尾道の商人は豊臣秀吉の朱印船貿易にも絡み[67]、文禄・慶長の役の際には尾道の商人が船を出し輸送に関わっている[25]。 江戸時代、この地は広島藩領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える[62][68][34]。
官道整備
西廻海運による交易
尾道は山にも海にも通じた便利な場所となり、日本各地から様々な商品を運んだ船がやってきて、尾道の商人は中継交易して他の地へ売りさばいていった[89]。港の活性化とともに、豪商によって沿岸部の浚渫と埋立および築港が進められた[68][2][39]。大規模な埋立は広島藩営でも行われ、できた土地は商人に払い下げられるが藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した[2]。港湾利用者のため花街が形成された[2]。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという[2]。 こうして、海沿いが港湾施設、平地が西国街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、街道から北の斜面地の寺社そして南の海をつなぐ小路がいくつもでき、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている[39][90]。 江戸時代中期になると市場経済の拡大により尾道は更に活況し新興豪商が台頭するも、古い商人との対立が増え秩序が乱されるようになった[72][91]。そして尾道の東隣になる福山藩の港・鞆との競合も激しくなっていった[72]。それに伴い尾道は港として信用が落ち停滞するようになる[72][92]。藩は尾道のこの状況を危惧した[72]。元文5年(1740年)、第13代尾道奉行平山角左衛門が着任すると、流通機構の改革を進めた[68][2][72]。ちょうど町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」埋立工事を行っている[68][2]。平山自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている[68][2][62]。その他にも“問屋役場”を設立されそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化、株仲間を藩公認とした[93][62][68]。明和元年(1764年)広島藩札の価値が暴落し商業活動が困難となると、商人たちにより資金融通機関“問屋座会所”が設立された[62][62]。 尾道水道を縦断する渡船の最古の記録は、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たものになる[94]。これは現在の尾道渡船にあたる[94]。 一方で、泰平の世となり海賊の心配がなくなったことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていくと、御手洗や倉橋(呉市)など島嶼の港町の取引量が上がった[77][72]。こうなると広島藩は交易港としての尾道を軽視するようになる[92]。また19世紀に入ると広島藩は領内の特産品を買い上げ大阪で売る専売制政策を始めると同時に特産品の流通統制を始めると、商人の淘汰がすすんだ一方で多角経営化に成功した豪商が現れた[92]。ただ藩の統制はのちに藩内にハイパーインフレを招いてしまい、藩の金融経済は悪化した[78]。 文化4年(1807年)悪病が流行する(ベッチャー祭りの起源)[25]。 広島県立文書館所蔵の『青木茂旧蔵文書』内に文化5年から文政13年(1808年-1830年)尾道の組頭が旅人の滞在願いをまとめた帳面が残っている[91][13]。それによると大坂三郷からの行商人が最も多く、次いで備中・播磨・安芸とつづき、遠くでは長崎・越後・飛騨・江戸からも来ていた[91][13]。上方からは本の行商、植木屋、浄瑠璃・座敷噺などの芸能者が多いため、様々な上方文化が尾道に伝播していたことになる[13]。 豪商の寄進により寺院は最盛期で81カ寺が造影されていたという[95][96]。多くの寺社は尾道に観光客を呼び寄せた[92]。現在では25カ寺が点在する[96]。 近現代近代に入り、欧化政策により産業構造が変化する[34]。近世に廻船での交易で栄えた港町の中には、近代以降汽帆船と鉄道の登場により存在意義がなくなり衰えていく[102]。ただ尾道は新たな交通・産業により引き続き商業地として発展していく。 明治4年(1871年)廃藩置県後、広島県御調郡尾道町となる[25]。この時期、「御調県」構想と尾道を県庁所在地とする案が浮上している。当時、尾道は広島県の東端で、それより東側の福山は小田県に属していた[103]。広島県庁舎は当初広島城内に置かれていたが、広島鎮台発足と仮庁舎の火事により移転を繰り返していた[103]。明治6年(1873年)伊達宗興県令は県庁を尾道に移し広島県を御調県と改称する計画を立て、大蔵省に提出した[103]。これに前島密大蔵官僚は県として手狭になることと無暗に移転することを嫌がり、強く否定したことにより実現しなかった[103]。明治31年(1898年)4月、県下2番目の市制施行、「尾道市」となる[25]。尾道の代表的な景観・観光地である千光寺公園が出来たのは同じ頃で、明治36年(1903年)地元商人三木半左衛門が整備し市に寄贈した[104]。 →「尾道市 § 歴史」も参照
ここで、尾道に山陽鉄道(山陽本線)が登場する。山陽鉄道はルートを5案計画した中で、経済的理由から市街地を貫通する案を進めた[105]。商業区域を二分し寺社の参拝道が奪われることになる計画案は当初から反対が多く反対運動が起こり町を二分して白熱し、ほぼ1年かけて調停が行われた[105]。様々な問題を解決し明治24年(1891年)10月、福山駅-尾道駅間が開通した[105]。明治45年(1911年)には軽便鉄道「尾道鉄道」も開通する[105]。中世以来の港町に“海の路”に加えて鉄道という新たな“陸の路”が備わることで、陸海交通の要所となり更に商業地として発展していった[106]。そして新たな物流手段が出来たことにより新たな豪商が生まれ、さらにこの鉄道が尾道の景観を一変させる(下記坂のまち参照)[34][105]。
尾道は、少なくとも明治時代までは広島県随一の商業地であった。「銀行浜」と呼ばれた当時県内随一の金融街があった[108]。明治12年(1879年)広島県初の国立銀行として「第六十六国立銀行」が銀行浜で設立する[25][109][87]。のち広島市にも第百四十六国立銀行が設立されるが、尾道の国立銀行のおよそ半分の規模のものだった[109][87]。明治29年(1896年)には「尾道貯蓄銀行」、後の尾道銀行も銀行浜で設立する[108]。なおこれらの銀行の後身は広島銀行であり、つまり広銀の歴史で見れば創業地は尾道ということになる[109]。
尾道は住友家とも関係がある。明治6年(1873年)住友家は「住友尾道分店」を開設、明治25年(1892年)「住友尾道支店」に格上げする[106][87][12]。その前年に神戸から尾道まで山陽鉄道が開通しており、住友家が経営していた別子銅山の玄関口となっていたことから、住友尾道支店で銅山の物品調達と並合業(自己資金による物品抵当の金融事業)を行うことになった[106][87][12]。そして、明治28年(1895年)5月住友尾道支店にて、合議制を初導入した第一回住友家重役会議いわゆる“尾道会議”が行われ、“住友銀行ヲ興ス事”つまり住友銀行の創業が決まり、同年11月住友本店銀行部が大阪で開業した[106][87][12]。当時住友家の主要業だった銅山の中継基地だった尾道で、新たな主要業となる銀行の発足を決めたということになる。その際に住銀は神戸と尾道に初の支店を設けており、現在も三井住友銀行尾道支店として存続している[12]。その他にも、明治42年(1909年)には別子銅山の煙害被害者と住友本店との初めての正式交渉いわゆる“千光寺会談”が行われ、翌年賠償契約を締結している[87][110]。大正2年(1913年)、住友肥料製造所(現住友化学)が新居浜で開業した際には、尾道が荷揚げ・荷捌きの港となった[87]。なお令和2年(2020年)竣工の尾道市役所庁舎の設計は日建設計であり、その前身は住友本店臨時建築部になる[106]。
昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。
近世での尾道の特産はそのまま近代・現代にも受け継がれた。例えば塩は専売制となり大蔵省専売局尾道専売支局が置かれた以降も製造していた。尾道酢は、大正時代には満州・台湾・朝鮮にまで輸出されており、昭和30年代には広島銀行頭取橋本龍一とキユーピー役員廿日出要之進の偶然の出会いからキユーピーマヨネーズの原料酢に使われていた[10]。 近代から現代にかけて、この地域の産業の中心となったのは向島・因島での造船業である[2]。これらの島では中世では村上水軍の勢力下で、近世では商人用の廻船として船製造が行われており、近代になり木造船から鉄造船に移行すると、島で育まれた造船技術と尾道において中世から受け継がれていった鍛冶の技とが結びつき飛躍的に発展した[111]。因島では明治29年(1896年)土生船渠合資会社が、向島では明治39年(1906年)松場鉄工所、瀬戸田では大正4年(1916年)山陽造船が最初に起業し、以降日立造船系(現ジャパン マリンユナイテッド)・尾道造船系・内海造船系の3つに集約されている[111]。日露戦争・第一次世界大戦・第2次世界大戦・朝鮮戦争と戦争による特需活況と戦後の不況、その後も好況不況を繰り返したなかで成長していった[111]。 この造船に活気だつ島へ尾道からの交通手段として渡船が最大で12箇所まで増えていくことになるが、現代に入り広域交通が整備される中で規模が縮小されていった[94]。 昭和2年(1927年)西隣三原の糸崎港とあわせ尾道糸崎港として第2種重要港湾に指定され、昭和13年(1938年)尾道中央桟橋・西御所物揚場などが整備された[3][21]。更に昭和28年(1953年)尾道糸崎港は重要港湾に指定された[3][21]。 そして、戦後の広域道路網整備は昭和43年(1968年)尾道大橋開通から始まり、平成27年(2015年)に山陽自動車道・西瀬戸自動車道・中国横断自動車道が結ばれた。昭和63年(1988年)山陽新幹線新尾道駅が開業、駅前再開発に合わせ平成11年(1999年)尾道駅が平成12年(2000年)尾道糸崎港が再整備された。
まちづくりの取り組み現在尾道市全体で見ると、少子高齢化がすすみ空き家が発生している[1]。市街地でも同様で、特に斜面地では災害対策やバリアフリー問題など生活環境に問題がある[1]。一方で尾道は数年ごとにブームが起こる観光都市でもある[112]。都市開発による急激な変化を望まないものもいる。尾道市主導の開発の幾つかは市民の抗議により頓挫しており、平成に入り2度高層マンション計画が上がったが、1度目は署名活動を展開した市民団体が用地を買い取り現在はMOU尾道市立大学美術館となり、2度目は市民の抗議活動を受けて市が用地を買い取り公園になった[1][113][114]。 これらを受け、尾道市は景観を重視するようになる。景観法に基づく景観行政団体となり市街地を景観地区に指定、2007年には全国に先駆けて「尾道市景観条例」を制定、歴史まちづくり法施行に伴い尾道市は「歴史的風致維持向上計画」を作成し、市街地を「尾道・向島歴史的風致地区」として重点区域に指定した[1][114]。 こうした中で国による日本遺産選定の際に尾道市が作成した「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」というストーリー案が認められ、2015年広島県初の日本遺産認定となった[114][115]。 風景尾道は、南北を山と海に挟まれ東西に細長い土地に港町・商都・門前町として栄え、そして太平洋戦争末期に空襲を受けていないため、中世から現代までの建物・文化財が混在し、多くの魅力的な観光資源の間を細い路地と石段・石垣が張り巡らされ、特徴的な情景を醸し出している。大林宣彦は「根っからのスクラップアンドビルドの町」と表現している[113]。 坂のまち現在の尾道旧市街地の景観が形成された過程は以下のとおり。
山手側にはかつて神社仏閣以外の建物は存在していなかった。江戸時代に初めて出雲藩の出張所“出雲屋敷”が建てられた[85][86]。江戸後期になると千光寺山斜面地に豪商が「茶園」とよばれた別邸を建てた[117]。 明治に入りそこに山陽本線が通ることにより景観は一変した。尾道三山の麓近くの寺社のいくつかは敷地に線路が通ることになり、参道に踏切あるいはアンダーパスが設けられることになってしまった[105]。特に常称寺は境内が二分された[118]。また鉄道が通る事になると山手側への住宅建築が許可され、線路により立ち退きに迫られた住民が移っていった[105]。これに加え、鉄道開通に絡んで商売に成功し財を成したものが、風光明媚な山手側に別荘を建てていった[105][119]。 こうして、線路の山側が中近世の建造物の周辺に近現代に建てられた和風あるいは和洋折衷住宅(群)が立地し、その間を細い路地と坂道が複雑に伸びる「坂のまち尾道」が形成された[105][118]。逆に線路より南側は近世に宿場町・商業地だった町割を色濃く残し[39]、尾道本通り(旧西国街道)を基準に縦長の土地区画(鰻の寝床)に小路が張り巡らされ、近世からの名残を残す商家と近現代的な建物が混ざり合う商業地に、海岸沿いの港湾施設が立地している。 「歴史のただよう坂道」で、平成2年度手づくり郷土賞(ふるさとの坂道受賞。
芸術文化のまち→「尾道市 § 尾道を舞台(モデル)とした作品」も参照
尾道は古くから多くの文人・芸術家を輩出してきた。また多くの文人が訪れ、風光明媚な景色を見て自身の作品に残している。
『万葉集』の中にある遣新羅使の歌である。この歌は一般には岡山県玉島のこととされているが、尾道のことを歌ったとする説も存在する[121]。 応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が九州探題として下向していた時に書かれた紀行文『道ゆきぶり』の中に当時の尾道が出てくる[33]。 浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々伏見城内に豊臣秀吉が所有していた茶室“燕庵”を様々な経緯を経て尾道の商人天満屋が海物園に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの[34][122]。つまり、安土桃山時代に花開いたわび茶文化が尾道にも伝播していたことを意味する[93]。 尾道の茶文化は江戸時代後期に「茶園」、邸宅内あるいは尾道三山斜面地の風光明媚な場所に作られた茶室や庭園、を生み出した[93][123][117]。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば頼山陽や菅茶山、田能村竹田や浦上春琴らは作品を残している[93][123]。山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った。
正岡子規は、日清戦争の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。
近代文学では、志賀直哉『暗夜行路』と林芙美子『放浪記』が特に著名。 志賀は尾道で暗夜行路の前身にあたる『時任謙作』を起稿、『清兵衛と瓢箪』を執筆している[125][119]。
若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。
尾道出身の芸術家としては平田玉蘊、宮原節庵、福原五岳など(圓鍔勝三は御調、平山郁夫は瀬戸田、矢形勇は原田出身)。 洋画家小林和作は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。 和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している[127]。
最初に尾道が舞台となった映像作品は、1929年公開木藤茂『波浮の港』になる[130]。 代表的なものとして小津安二郎『東京物語』が挙げられている[130]。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、ロケ地見物に観光客が訪れている[128][131]。ただ映画公開当初は、尾道を象徴する風景がなかったため、尾道の人々は拍子抜けしたという逸話がある[128]。 若い頃尾道で暮らしていた新藤兼人はたびたびロケをしており、出世作となった『裸の島』を始め、『悲しみは女だけに』『かげろう』『落葉樹』で用いている[130]。『石内尋常高等小学校 花は散れども』では小津の『東京物語』に登場する竹村家で撮影している[132]。 そして大林宣彦の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』『ふたり』『あした』『あの、夏の日』の尾道三部作/新尾道三部作の6作品[130][97]。尾道出身の大林は、名所だけでなく歩きにくい山道など何気ない故郷の原風景、なにより坂のまち尾道をそのまま作品に活かした[113]。 NHK連続テレビ小説では『うず潮』『てっぱん』で舞台となった[25]。 近年は舛成孝二『かみちゅ!』や小林俊彦『ぱすてる』、『龍が如く6 命の詩。』などアニメ・漫画・ゲームなどの舞台にもよく使われる。
石のまち尾道の地盤はほぼ花崗岩で形成されている[6][82]。花崗岩は風化しやすく加工しやすい特性がある。尾道の自然は長い年月をかけ特異な形をした巨石群を生み出し、幾つかには伝説が生まれ名がつけられた。そして加工しやすい石は中世から尾道の石工文化を育んでいき、石材加工品である石段・石塔・石像・狛犬などで尾道を飾った[82]。
猫のまち
尾道は魚の美味しい港町であることから、猫にとって住みやすいところである[136]。そこで猫をテーマとした新たな観光資源を発掘している。 観光協会は、市街散策コースに艮神社そばの福石猫で飾られた「猫の細道」や「招き猫美術館」など猫をテーマとしたものを加えた[136]。2017年尾道市立美術館で開催された「猫まみれ展」において、企画展に入ろうとする猫とそれを防ぐ警備員とのやりとりがSNS上で話題となり、美術館の名が世界的に知られるようになった[137]。
空き家再生2015年時点で南斜面地の山手側に立つ民家1,200戸のうち300戸以上が空き家であるという[114]。少子高齢化による住民減少、景観地区であるため用途が条例により制限されていること、傾斜地・細い道と施工が困難なことに加え接道義務を満たせないことから新築するにはハードル高すぎるためである[114]。 一方で古い町並みを残す雰囲気に憧れ、地価も安いため既存の建物を改修する選択肢があること、空き家再生プロジェクトとして市やNPO団体から支援が行われていることから、移住希望者が増えている[114]。
自転車元々尾道市のサイクリング文化は貧弱だった[140]。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で愛媛県今治市と繋がり交流していく中で、そのノウハウが先行していた今治から伝播する形で尾道に定着した[140]。そして近年しまなみ海道サイクリングロードが呼び水となって外国人観光客が増加している[140][21]。 これに関連して、尾道駅の南側は老朽化した尾道港湾施設更新に加えてサイクリングロードの玄関口として、尾道ポートターミナルや県営の海運倉庫を民間でリノベーションしたONOMICHI U2などが整備され「サイクリングポートみなとオアシス尾道」として開場した[21][141]。従来、尾道の観光客は尾道駅から北から北東側の山手側を回遊していたが、これらウォーターフロントの再開発により駅の南側にも人の流れができた[142]。
祭り・イベント以下、尾道市観光協会が紹介する旧市街地での主な祭り・イベントを列挙する。
文化財→「尾道市 § 観光」も参照
ここでは2021年時点旧市街地範囲内で国の文化財登録されているものだけを列挙する。
この地は3つの日本遺産に認定されている。以下構成する文化財のうちこの地区、向島地区を除いた本州側尾道市中心部にあるものを列挙する。
食一般的に認知されている、尾道の名のつく食文化は以下のとおり 観光協会は、港町であるため瀬戸内海の魚介類をメインとしている[144]。また尾道の風情の中で古民家を改装したカフェが点在している[145]。
交通尾道市自体は、広域交通網として山陽自動車道・西瀬戸自動車道・中国横断自動車道が結ばれ「瀬戸内海の十字路」が形成されている。尾道市街地には山陽本線尾道駅・尾道糸崎港、郊外には山陽新幹線新尾道駅がある。ここでは特に、尾道特有の交通手段を列挙する。
脚注
参考資料
関連項目外部リンク
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