山辺町
山辺町(やまのべまち)は、山形県のやや南東部に位置する、人口約1万3千人の町。ニットをはじめとする伝統繊維産業や、「舞米豚」(まいまいとん)や「やまべ牛乳」などの畜産業で知られる[2][3]。出羽国で唯一現存している安国寺がある。 地理町域の北東部は山形盆地の南西にあたる平地であり、役場や駅施設など中心市街地がある。また、須川を境に県庁所在地の山形市に隣接する。中部から南部は、大小の沼が点在する山間部であり、南端の白鷹山周辺には県民の森やキャンプ場などの施設がある。 行政議会
→詳細は「山辺町議会」を参照
歴史
産業郵便局金融機関地域東部の平地部(山辺地区)には鉄道や国道が走り、町役場や町の主要産業施設が集中する。 中部には町役場中支所や中公民館があり、山辺町中心部とは主要地方道(山形朝日線)で結ばれる。西南部には町役場作谷沢支所や作谷沢公民館があり、山辺町中心部とは主要地方道(山形山辺線)で結ばれる。 また、地区名としては、中地区(中支所)と作谷沢地区(作谷沢支所)の他に、平地部には、大寺地区、相模地区、近江地区などがある。特に近江地区では、山形市と隣接しているため、ニュータウンの開発が進んでいる。また、2008年頃から緑ヶ丘ニュータウンの分譲が開始され、現在まで開発がすすんでいる。 人口は減少しながらも、世帯数は増え続けている。 空き家問題を解決するため、空き家バンク制度を行っており、誰も住んでいない家屋は、劣化が進みやすく倒壊の危険や防犯上の問題もある。その為使用予定がない空き家であれば、状態が良いうちに新しい利用者を探し、有効に活用するという取り組みである。 また、少子化対策として、高校生以下の医療費を無料化している。 人口
友好都市江戸時代後期、1836年(天保7年)、当時鎖国をしていた日本への開国を迫るための外国船がしばしば近海に現れるようになったことから、第9代水戸藩主徳川斉昭公の命により、海防(沿岸などを防備すること)を目的とした全国でも例のない城郭(城の周りの囲い)、助川海防城が日立市助川町に築かれました。
その初代城主に任命されたのが、山辺町の山野辺城初代城主山野辺義忠公を祖とする水戸藩家老の職にあった第9代山野辺義観公で、その後11代義芸公までの3代にわたり城主を山野辺家が務めました。 このように、本町と茨城県日立市は歴史的に深いつながりがあったことから住民交流が始まり、交流が契機となって平成16年5月7日に友好都市提携の調印を行いました。平成17年12月9日には「災害時相互応援協定」を締結しています。教育
教育高等学校
交通鉄道路線
バス路線
町内をくまなく走るが特色として、畑谷農村婦人停留所から北垣停留所までの間の区間は、比較的交通量が少ないため、フリーストップ区間として停留所によらず乗り降りが可能となっている。運賃は一律100円。 道路空港観光ほか
その名の通り、県民のレクリエーションや健康増進のための公園として荒沼周辺が整備されている。体験学習施設やアスレチック遊具が備えられている[7]他、 スキー場[8]やキャンプ場、昔ながらの生活が体験できる施設や、野外活動センター[9]などもある。 その名の通り、総計約15000m²のラベンダー畑やハスカップ畑などがあり、花の香りが楽しめる公園である。なおかつて催していた「ラベンダー祭」は、生育不良により終了した。
出身有名人現在の高楯地区に生まれた。国際司法裁判所長時代、正義と公正感が強かったため世界各国から尊敬されていた。また、1929(昭和4)年に、ハーグ市で対独賠償会議が開催され、仏国と英国の意見が対立し戦争が心配されるまでに発展したとき、困り果てた両国から調停の依頼を受けた博士は、日本流の茶席に招いて和解させ、会議を成功に導いたという。そんな彼は1934(昭和9)年12月28日にオランダにて心臓病が悪化し、死去した。翌年1月、オランダで国葬が開かれた。[15]
脚注
関連項目外部リンク |