成田勝四郎成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年)10月5日 - 1982年(昭和57年)10月26日[1])は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。 来歴・人物東京府東京市生まれ。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部を卒業。在学中の1927年高等文官試験外交科に合格し、卒業と同時に外務省に入省。同期入省組には、東大法科でも同期だった与謝野秀がいる[2]。 入省後、書記生としてイギリスへ配属されたのを皮切りに、戦前はソ連、ドイツ、満州などに在勤[3]。帰国後、人事課長などを務めた後、終戦に伴い1945年に終戦連絡中央事務局第一部長に就任し[4]、同局長官岡崎勝男の側近としてポツダム宣言受諾に関わった[5][6]。同年外務省調査局調査官[7]。1946年外務省研修所員[8]。1949年京都連絡調整事務局長[9]。 1951年オタワ日本政府在外事務所長[3]、1953年在チリ日本公使を務めた後、パキスタン、オーストラリア、西ドイツで在日本大使を歴任。また、日本が国連加盟を果たして初めて総会初頭より参加した1957年第12回国際連合総会(代表首席・藤山愛一郎外務大臣)に国連政府代表団代表として参加し、日本の国際連合安全保障理事会非常任理事国初当選に貢献した[10]。その他、北方領土問題対策協会副会長などを歴任し[11]、戦後日本外交の重要な課題に取り組んだ。 親族妻は、林内閣で外務大臣を務めた佐藤尚武の長女・房子[12]。 栄典著書
他、論文多数。 脚注
関連項目
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