東京市
1889年(明治22年)に東京府(現・東京都)東部の15区を区域として設立された。1932年(昭和7年)に近隣5郡60町22村を編入して35区となる。最終的な市域は、現在の東京都区部(東京23区)に相当する。1943年(昭和18年)に東京府と統合されて東京都となった[1]。 東京市が存在していた時期以外の旧東京市地域の歴史については、東京都の歴史を参照。 歴史前史→「東京15区 § 明治11年(1879年)の15区」も参照
1878年(明治11年)11月2日、東京府における郡区町村編制法の施行により、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、同法第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し、麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区の15区(東京15区)を設けた。 同時に、江戸四宿と呼ばれた品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿という4箇所の市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・南豊島郡・東多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置いた。 1888年(明治21年)4月、市制・町村制が公布され、翌年の施行に向けて準備が開始された。同年8月には東京市区改正条例が公布され、政府の機関として東京市区改正委員会(委員長・芳川顕正元東京府知事)が置かれる。 市制施行→「東京15区 § 明治22年(1889年)の15区」も参照
1889年(明治22年)5月1日、東京府における市制・町村制の施行により、東京府は郡区町村編制法による東京15区の区域を若干変更して東京市を設け、区部の財産管理を移掌した。 東京市の市制は、同3月公布法律12号「市制中東京市京都市大阪市二特例ヲ設クルノ件」(市制特例)によって一般市とは一部異なる変則的な市制だった。東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で従来の15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。同年12月には市章を制定した[2]。 1894年(明治27年)、麹町区有楽町(現・千代田区丸の内三丁目)にドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の東京市役所が完成する。このときの建物は戦災で焼失し、東京市が東京都に改編された第二次大戦後の1957年に東京都庁新庁舎に建て替えられ、1991年の東京都庁移転後の現在は東京国際フォーラムに建て替えられている。 1895年(明治28年)頃から、東京府と東京市の二重行政が問題視され、東京市廃止の議論が始まる。 1898年(明治31年)10月1日、東京・大阪両市有志同盟の請願が結実し「市制特例撤廃法」が成立、東京市に一般市制が施行され、東京府庁内に市役所が開かれた。府知事の市長兼務は廃止されて、東京市長は市会が3名推薦して、政府がその中から1人を市長に任命する制度となり、初代市長には松田秀雄が任命された。1926年(大正15年・昭和元年)からは市議の互選により市長が選出されるようになった(詳細は「東京都知事一覧」を参照)。 市域拡張日露戦争[† 2]を機に日本が世界の一等国[† 3]の仲間入りをしたという自負が国民の中に生まれた[3][4]。また日露戦争により日本は軽工業から重工業に産業の中心が移り[5]、東京~横浜間には徐々に京浜工業地帯が形成されはじめた[6]。東京市の人口は日露戦争終戦直後の1906年(明治39年)に初めて200万人を突破した[7]が、1908年(明治41年)の約219万人をピークに1913年(大正2年)には約205万人に減少した。そうした中でも東京市周辺の人口は増加を続けており、市内と周辺で相反する状況になった(詳細は国勢調査以前の日本の人口統計を参照)。 大正年間に入る頃から大東京という表現が見られるようになったが、それは多くの場合、従来の東京市(15区)と近隣5郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域。豊多摩郡は南豊島郡と東多摩郡が1896年(明治29年)に合併して成立)の町村に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。 1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が勃発(1918年(大正7年)11月11日終結)、これにより日本は1915年(大正4年)下半期から大戦景気に沸き、市内も周辺も人口が増加し、大戦景気は1920年(大正9年)3月まで続いた。同年4月1日に豊多摩郡内藤新宿町を四谷区へ編入。同年10月1日に行われた第1回国勢調査では、東京市の人口は約217万人だった。 1922年(大正11年)4月24日には旧都市計画法に基づき、当時の交通手段で東京駅から1時間の範囲、半径約16kmの範囲を目安に「東京都市計画区域」が定められた。その区域は上記の「大東京」の範囲と一致する。同年10月2日には、当市を含む人口の多い6市が六大都市となった。 1923年(大正12年)9月1日に関東大震災(関東地震)が発生、東京市も被災し特に下町が大打撃を受けた。この影響で東京市の人口は減少し、1925年(大正14年)10月の第2回国勢調査では、同年4月に第二次市域拡張を実施した大阪市に人口・面積ともに抜かれてしまった。1930年(昭和5年)10月の第3回国勢調査では、人口200万人台を回復したものの、大阪市との差が拡大する結果となった(詳細は都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位を参照)。結局、当初の市域のままの東京市が大阪市を抜き返すことはなかった。 1932年(昭和7年)10月1日、東京市は市域拡張を実施し、近隣5郡60町22村を編入して新たに20区を置き、東京35区となった[8]。当時の藤沼庄平府知事と永田秀次郎市長が進めた35区制は、人口密集とライフラインの脆弱性から戦後間もない頃、なくもがな、とも評された[9]。1936年(昭和11年)10月1日に北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区へ編入し、現在の東京都区部の範囲が確定した。 1936年(昭和11年)、国際オリンピック委員会(IOC)により1940年東京オリンピックの開催が決定された。その後、開催の準備が進められたが、日中戦争(支那事変)の勃発や、物資や兵士を取られる軍部の反対などから、日本政府は1938年(昭和13年)7月に開催権を返上した。 廃止→「東京都制」も参照
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に内務省主導で東京都制が施行され、東京府と東京市が廃止されて東京都が設置されるとともに、旧東京府庁と旧東京市役所の機能は東京都庁に移された。東京都と旧東京府は管轄区域が同じであるため、旧東京府域を指す呼称に「東京都」を用いることができる一方、旧東京市域を指す呼称がなくなり、「東京都区部」と称することになった。 旧東京市35区は、従来どおり議会(区会)をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされ、従来は東京市の吏員が任命されていた区長には官吏が任命されることとなり、東京都長官の指揮監督を通じて内務省による統制が強化された[10][11]。 終戦後の1947年(昭和22年)3月15日、旧来の東京35区は東京22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日に旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区が成立、東京23区となって現在に至っている。 行政区画
区の変遷一覧
政治東京市長→歴代の東京市長については東京都知事一覧を参照
東京市会→詳細は「東京市会」を参照
地方議会として東京市会が設置されていた。 不祥事1900年(明治33年)12月22日、ガス料金値上げ問題などに関する贈収賄罪他で起訴された72名全員が有罪となった東京市会汚職事件(東京市疑獄事件)により、中心人物とされた星亨逓信相が辞職に至った(後任原敬)。
教育市立学校
図書館東京市立図書館は28館が設置され、その後の都制施行により東京都立図書館に移行したが、第二次世界大戦の激化により閉館が相次ぎ、さらに戦争末期の空襲で多くの施設や蔵書を焼失した。戦後、区部にあった都立図書館は中核的存在だった日比谷図書館を除いて各区に移管された。 →「東京都立図書館 § 図書館一覧」を参照
博物館
東京市の名残東京都章[12]及び東京都旗は旧東京市章を継承したものである。ただし現在では1989年(平成元年)に制定されたTの字を図案化した東京都シンボルマークの方が多く使われている。 1926年(大正15年)制定の「東京市歌」(作詞・高田耕甫、作曲・山田耕筰)は、1947年(昭和22年)の「東京都歌」制定後も廃止されず都歌に準じた扱いで存続している[13]。 「都民の日」である10月1日は、一般市制による東京市発足の日にちなむものである。 警視庁の区部警察署の所轄区分は、東京35区当時の区分を踏襲している。 関連項目
脚注
参考文献
外部リンク |