木村庄之助木村 庄之助(きむら しょうのすけ)は、大相撲に於ける立行司の名称。行司の最高位で、相撲の番付に例えると東正横綱に相当する。当代の39代は2025年1月場所より登場する運び。 概要現在、木村庄之助を襲名するための必要条件は、式守伊之助を経たのちに先代の庄之助が引退して空位になった場合である。24代以降で庄之助を襲名した者は、全員が伊之助を経たのちに庄之助を襲名している[注釈 1]。このため庄之助と伊之助が同時に引退した場合、次の格の行司はいきなり庄之助を襲名することはできず、一時的に伊之助を襲名したのちに次場所(以降)で庄之助を襲名することができるため、庄之助空位の場所が発生する[注釈 2]。この事例は2006年3月場所で発生した。伊之助から庄之助を継承した初めての事例は10代伊之助であった17代庄之助で、1921年5月場所の5日目に横綱大錦 - 前頭5枚目鞍ヶ嶽戦を差し違えた責任を取って突然廃業した。当時の12代伊之助は18代庄之助を襲名せずに当場所限りで引退して立行司が空席となり、翌1922年1月場所で初代木村朝之助が伊之助を経ずに18代庄之助を襲名した。13代伊之助はのちに19代庄之助となる5代式守与太夫が襲名した。ほかに23代庄之助も伊之助を経ずに庄之助を襲名した。 6代庄之助より13代庄之助まで「木村庄之助正武」を名乗った。継代数は、6代庄之助が3代水増して自ら9代庄之助を名乗ったとする説がある。 江戸時代から年寄の資格を持ち、歴史上「木村庄之助部屋」として相撲部屋を持った上で弟子として力士を養成した庄之助がいたこともあったが、行司停年制を実施する前の1958年限りで年寄名跡から除かれている。 軍配に紫の房、明治以後は装束である直垂に紫の菊綴じ、差し違えた際は切腹する覚悟の意味で左腰に短刀を帯刀し、右腰に印籠を下げる。「ゆずり団扇」と呼ばれる軍配は代々受け継がれており2本ある。1本は1面に「知進知退 随時出処」、1面に「冬則龍潜 夏則鳳擧」と記されており13代庄之助以来のものである。1本は白檀製で1面に牡丹、1面に唐獅子の彫金が施され、1971年1月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られた。 「軍配は右手」と継承されているが、現存する錦絵によると、7代とされる庄之助は左利きのために左手で軍配を持っている。 本場所の本割では1日に結びの1番のみを裁く慣例だが、千秋楽の優勝決定戦を庄之助が裁くときは1日2番を担当している。庄之助は1番限りの慣例から優勝決定戦を伊之助が裁いた時代もあるが、行司溜まりに控えており、出場力士が多数で番数が多い場合は、2番ずつを目安に交代して土俵に上がり裁いた。伊之助不在の場合は最初から庄之助が裁いた。立行司が3人いた時代は木村玉之助が裁いたこともあり、副立行司が存在した時代はこれが受け持ったこともある。幕内最高優勝の決定戦で、出場力士の最高位が横綱・大関の場合に立行司が裁くが、現在はその場合、庄之助と伊之助のどちらが裁くかは事前に定めてもう一方が控えとなる。 番付上庄之助と伊之助が揃っている状態から先代の庄之助が引退しても、伊之助は必ずしも翌場所に庄之助に昇格できるとは限らず、行司としての実績や年齢などの要素によっては、庄之助が空位の場所が発生することもある。 37代庄之助が2015年3月場所で停年退職後、次期庄之助になるはずだった40代伊之助が、軍配差し違えなどの土俵上でのミスや自身の不祥事などにより結局庄之助になれないまま辞職したことや、40代伊之助の後任となった41代伊之助(後の38代庄之助)も体調不良での休場や軍配差し違えなどの土俵上でのミスを多く経験していることなどもあり、大相撲史上最長となる8年以上にわたり庄之助不在状態が続くことになった。2023年9月28日に行われた日本相撲協会理事会で、2024年1月場所より41代伊之助が38代庄之助を襲名することが決まったが、庄之助襲名が遅れた理由として「(軍配差し違えの続出で)裁きが安定しないことが考慮された」と指摘する報道がある[1]。 木村庄之助の代々
大阪行司
木村庄之助の記録
木村庄之助として合わせた時代についての記録
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |