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松平頼豊

 
松平 頼豊
時代 江戸時代中期
生誕 延宝8年閏8月20日1680年10月12日
死没 享保20年10月20日1735年12月4日
改名 軽千代→頼豊→頼保→頼豊
別名 通称:式部
諡号 恵公
戒名 高林院殿真蓮社廓誉了然源恵大居士
墓所 香川県高松市仏生山町の法然寺
官位 従四位上讃岐守左近衛権中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
讃岐高松藩
氏族 松平図書家→高松松平家
父母 父:松平頼章、母:七姫
養父:松平頼常、養母:松姫
兄弟 大次郎、頼豊
正室:正親町豊子
側室:喜智、連津
徳川宗堯頼治、春、友、富、満、加治、定、金姫
養子:頼桓久子
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松平 頼豊(まつだいら よりとよ)は、江戸時代中期の大名。松平図書家第2代当主のち讃岐高松藩第3代藩主。水戸藩徳川宗堯の実父である。

生涯

延宝8年(1680年)閏8月20日、図書家当主松平頼章松平頼重の四男)の次男[1]として高松にて誕生した。母は権中納言樋口信康の娘・七姫。

貞享4年(1687年)に父が死去したため家督を相続して図書家の当主となった。元禄17年(1704年)2月11日に藩主松平頼常が隠居したため、その養嗣子として家督を相続して藩主となった。将軍世嗣綱豊の諱を憚って頼保と改めたがのちに頼豊へと戻した。風水害や流行病などが相次ぎ、享保の大飢饉の被害もあって藩財政は苦しくなり、藩士の知行を削減して財政再建と出費抑制に努めた。その一方で、生活に苦しむ領民の租税を軽減するなどしている。享保20年(1735年)10月20日、江戸で死去した。享年56。

頼豊の息子のうち、嫡男徳川宗堯水戸徳川家を相続し、代わって嫡男とした頼治は早世した。そのため、大膳家当主松平頼煕の嫡男頼桓を婿養子として跡を継がせた。

『盛衰記』によれば、「恵公御代より一同に相止申候に付恵公以後不被遊候」とあり、頼豊以前は藩主が幕府から死罪人を貰い受けて藩主自ら試し斬りにする慣習があったが、頼豊が宝永年間に藩主に就任して以降は幕府がそのような慣習を廃止したため、高松藩に限らずどの藩でも行われなくなったという[2]

系譜

  • 正室:正親町豊子(栴檀院) - 正親町実豊
  • 側室:喜智(西御部屋) - 湯浅方淑娘
  • 側室:連津(山本氏)
    • 次男:幸千代
    • 次女:幾姫
    • 四女:満姫 - 榊原政祐婚約者のち久我通兄
    • 五女:金姫(1712年 - 1763年) - 清玉尼、天華院、鎌倉英勝寺3代住持
    • 六女:政姫
    • 八女:貞姫
  • 側室:紺(中村氏)
    • 三女:槌姫
  • 側室:津耶(岡氏)
    • 三男:頼治(1711年 - 1730年)
  • 側室:隆(森田氏)
    • 四男:紋三郎
    • 五男:勝之進
  • 側室:里世(太田氏)
  • 側室:理佐(澤田氏)
    • 六男:軽千代
  • 側室:須女(森田氏)
  • 側室:萬里(杉山氏)
    • 七男:捨之允
    • 十三女:友姫 - 松平容貞正室
    • 十五女:定姫 - 徳川宗堯養女、近衛内前婚約者
  • 側室:小笠原氏
    • 八男:永之助(1725年 - 1734年)
  • 側室:古橋氏
  • 養子

脚注

  1. ^ 徳川氏系譜
  2. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、93-94頁。 
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