森毅
森 毅(もり つよし、1928年1月10日 - 2010年7月24日[1][2][3])は、日本の数学者、評論家、エッセイスト。京都大学名誉教授[2]。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。「一刀斎」と号した。 来歴・人物東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)生まれ、大阪府豊中市育ち。大学教授時代より亡くなるまで京都府八幡市に在住した[4]。 小学生の頃から塾へ通うなどしていたが、「戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた」という(本人著『数学受験術指南』より)。 大阪府立北野中学校(旧制)(現:北野高校)在学中から数学が得意であった。その後、旧制第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)へ進学。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っている、と評判であったからだそうだ。萩原延壽とは三高時代の同級生で親交深かった。 在学中の二年生の時に終戦を迎え、東京帝国大学理学部数学科へ進学。この頃は、東大では医学部よりも理学部物理学科の方が難関であったらしく、「数学科なんて入りやすいほうだった(同著)という。東京大学在学中は歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団に熱中した[5]。北海道大学理学部助手を務めた後、1957年京都大学教養部助教授に就任。1971年、教授昇任の審査の際に、助教授就任後の数学者としての業績は論文が2本だけだったため、「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで京都大学の教授となった。京大時代は名物教授の一人として人気を博す[5]。大学内では「一匹コウモリ」と呼ばれ、森本人も公認していた[6]。京都大学退官後は「人生20年4回説」を唱え、定年後の老後の生き方について数多くの提言を行った[5]。 コラムニスト・エッセイストとして、新聞・テレビなどのマスコミでも広く活躍した。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。文学・哲学についても造詣が深く、『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』などの編集に加わった。 数学教育に関しては、民間の教育団体である数学教育協議会の活動に深く関わった。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論だった。 2009年2月27日、一人暮らししていた八幡市内の自宅で卵料理を作っていた最中に、ガスコンロの火が着ていた衣服に燃え移り、腕、胸、背中など全身の30パーセント以上に大火傷の重傷を負った。 2010年7月24日午後7時30分、敗血症性ショックのため大阪府寝屋川市内の病院で死去[1][3]。 略歴
主要な研究論文
著書
共著
翻訳
編著
出演主にゲストとして出演。
CM
エピソード『ちくま文学の森』の編集会議の際、森が「ボンテンペルリはええよ」「ピチグリッリ (Pitigrilli) もよかったなあ」とつぶやいたが、この際博覧強記な他の編集委員の面々も驚愕した。その2人の作家は、森が戦後の学生時代、闇市の古本屋で買ったイタリアの作家たちであった。彼らの作品は『ちくま文学の森』に収録され、ボンテンペルリについては、ちくま文庫からマッシモ・ボンテンペルリ『わが夢の女』として刊行された。 脚注
外部リンク |