渡瀬線渡瀬線(わたせせん)とは、トカラ列島の悪石島と小宝島の間を通る生物の分布境界線である[1][2][3][4]。屋久島と奄美大島の間を通るとされる場合もある[5][6]。生物地理区において旧北区と東洋区の境界であり、気候についても温帯と亜熱帯の境界となっている[4][3][7]。1912年に渡瀬庄三郎が提案し[5][7]、岡田弥一郎が命名した[8]。動物相および植物相の双方において重要な境界線とされ[9]、ブラキストン線などとともに日本における重要な分布境界線の一つとされる[7]。 哺乳類、爬虫類、両生類などの境界線は渡瀬線にあるとされているが、昆虫の分布境界線は大隅海峡にあるとされ、これは三宅線と呼ばれている[8][10]。ただし、チョウ以外では渡瀬線を北限とする種も多い[10]。また、植物相についても大隅海峡を境界線とする属が多いとする意見もある[11]。 沖縄諸島と先島諸島の間(慶良間海裂)でも生物相が大きく変化し、蜂須賀線と呼ばれている[4]。渡瀬線と蜂須賀線の間の奄美群島と沖縄諸島は生物相の共通性が高く、生物地理学の区分で中琉球と呼ばれる[4]。鳥類については渡瀬線ではなく蜂須賀線が境界線であるとされる場合もある[10]。 発見旧北区と東洋区の境界線については古くから多く議論されてきた[8][12]。 1912年に渡瀬庄三郎が[7]、1918年には青木文一郎が、奄美大島と屋久島の間に哺乳類の分布に境界線があると発表した[8]。これを1921年に江崎悌三が青木線と命名したが、1927年に岡田弥一郎が渡瀬線と命名したことで、現在では渡瀬線という名称が広まっている[8]。 現在では渡瀬線はトカラ列島の悪石島と小宝島の間を通る海底谷に対応すると定義することが通説となっているが、元々は屋久島と奄美大島の間を通ると定義されており、渡瀬や岡田はトカラ列島については議論していなかった[5]。また、現在でもハブを除けば悪石島と小宝島の間で明確に生物分布が変わるわけではないとする意見もある[5]。 成立琉球諸島の生物分布は島の形成によって影響を受けていると考えられている[1]。悪石島と小宝島の間にある海底谷は水深1,000メートルを超え、現在では西側の水深が火山堆積物により浅くなっているが、鮮新世から更新世においても海で隔てられていたと考えられている[2]。鮮新世に琉球諸島は日本列島から切り離されていくつかの大きな島ができたと考えられており[2]、更新世に入ると隆起により大陸から台湾を経て沖縄、奄美、トカラ列島南部までの伸びる陸橋が形成されたが、現在の悪石島と小宝島の間は海で隔てられていたと考えられている[2][13]。ただし、大隅諸島から悪石島、および奄美大島から小宝島まで陸橋で繋がっていたかについては諸説ある[5]。 生物相動物相渡瀬線以北の大隅諸島では哺乳類相、爬虫類相、両生類相は九州本土および本州と大きな違いがないとされる[10]。 哺乳類渡瀬線以南の南西諸島には、アマミノクロウサギ、ルリカケス、アマミトゲネズミ、ケナガネズミ、イリオモテヤマネコなど多くの固有分類群が存在する[4][10]。また、オオコウモリは渡瀬線を北限とする[10]。 爬虫類ハブ、ヒメハブ、リュウキュウアオヘビ、アカマタ、キノボリトカゲ、アオカナヘビは渡瀬線を北限とする[10]。 両生類渡瀬線以南では、有尾類ではシリケンイモリ、イボイモリ、無尾類ではヒメアマガエル、リュウキュウカジカガエル、ナミエガエル類などが生息している[10]。渡瀬線以南の南西諸島には固有種が多いと同時に、近縁種が中国南部や台湾、東南アジアに分布しているものが多いという特徴が見られる[10]。 その他昆虫においては三宅線が境界線であるとされる場合もあるが、チョウ以外では渡瀬線を北限とする種も多い[10]。 植物相渡瀬線以南の沖縄・奄美にはアダンやリュウキュウマツの海岸林、アコウやガジュマルといったイチジク属、ヤエヤマヤシやビロウのようなヤシ科、ヘゴやヒカゲヘゴなどの木生シダなどが出現し、河口域にはオヒルギ、メヒルギなどからなるマングローブ林が発達している[14]。ただしメヒルギは九州本土にも分布する[14]。また、渡瀬線はヒメツバキ属の北限である[14]。 照葉樹林については、渡瀬線をはさんで南北で構成種にある程度の交代は見られるが、大きな差はないと考えられている[14]。植物については大隅海峡を境界線とする属が多いとする意見もある[11]。 脚注
|