熱海型砲艦
熱海型砲艦(あたみがたほうかん)は、日本海軍砲艦の艦級[2]。 概要昭和2年計画艦。勢多型の改良型。前型の実績を現地調査して設計に反映させた。終戦時2隻とも上海方面で健在で中国軍に接収された。 計画昭和2年度 (1937年度) の補充計画で建造する砲艦について、軍令部の最初の要求は1,000トン型大型砲艦1隻、850トン型中型砲艦1隻、340トン型小型砲艦4隻であったが、最終的には、250トン型小型砲艦2隻のみの予算が議会で承認された[9]。 当時は揚子江方面の警備を強化するための河用砲艦が要望され、また減水期の期間でも上流へ遡江出来る速力が望まれた[10]。 設計に当たっては勢多型砲艦、「鳥羽」、「伏見」など在役の河用砲艦使用実績が考慮された他、1928年 (昭和3年) に設計担当者が揚子江方面へ出張して、現地の状況や現場の意見、各艦の使用状況などを調査した[10]。 艦型英国式の勢多型と比較して、低い煙突や大型の操舵室など日本海軍独特なスタイルとなった[11]。 船体艦の大きさは極力小さくするように努められた[10]。 船体は短い船首楼甲板を持ち、操艦を考慮して艦の長さは45.3 mに抑えられた (勢多型は54.8 m) [10]。 揚子江の急流域を溯行するために速力は勢多型と同じ16ノットが要求され、速力船長比が大となるために船体の柱形係数 (Plasmatic coefficient) を0.63に減少させた (勢多型は0.74) [10]。 また高速航行時の艦尾波を抑えて推進効率を上げ、舵の効きをよくするような船体形状が研究された[10]。 揚子江での運用上、吃水は1mと計画した[10]。 ただし竣工時でも計画より排水量が増加しており、吃水の増加と乾舷の減少に悩まされた[10]。 艤装一般配置は基本的に勢多型と同様で、船首楼甲板の直後から艦尾直前までシェルター甲板が続き、その上の前方に艦橋、後方に下士官室を設置した[10]。 煙突は2本[7]。 居住性を良好にするために艦内の艤装が改良され、無線通信能力の発揮に注意が払われた[10]。 舵は勢多型と同様に細長い形状の3枚舵で、舵軸をトランサム型艦尾の直後に設けた[10]。 機関ボイラーはロ号艦本式混焼缶2基を装備した[8]。 圧力14kg/cm2の飽和蒸気[8]。 揚子江方面では石炭より重油の方が入手が容易であったため、後に現地で重油専焼に改められたという[8]。 主機は直立2気筒2段膨張直動式レシプロ 2基[7]。 機関出力は1,300 ihp (970 kW)とする資料[4][6]と1,200 ihp (890 kW)とする資料[8][7]がある。 推進は2軸で回転数340 rpm、直径1,450 mm、ピッチ1,790 mm[8]。 推進器付近の船体にはトンネル状のくぼみを設け、推進器をその下端がキールラインより上になるように配置した[12]。 兵装竣工時の兵装は以下の通り[10]。
「二見」進水時の資料では機銃は6挺装備の予定で[14]、 その場合は一一式軽機銃 1挺[7]が追加装備されたと思われる。 回航時の仮装備1930年 (昭和5年) に日本から中国大陸へ回航する際に佐世保海軍工廠で以下の装備を仮設した[15]。
艦型の変遷上海事変の戦訓から[16]、1937年 (昭和12年) 頃に後部上構上に13ミリ連装機銃1基が装備された[13]。 1938年 (昭和13年) 時の兵装は以下の通り[17]。
太平洋戦争開戦前後に艦首の短8センチ高角砲は8センチ高角砲に換装されたと思われる[13]。 大戦後期に25ミリ機銃数挺が装備されたらしい[13]。 高角砲は撤去されて陸上砲台に移設されたと言われている[13]。 戦後撮影の「二見」の写真では高角砲が装備されていないという[13]。 運用2隻 (「熱海」「二見」) が建造され、 上海事変や日中戦争に参加、太平洋戦争後半には揚子江で対空監視船の任務も行った[10]。 終戦時には2隻とも上海方面にあって中国軍に接収され、後に中共軍で使用された[13]。 同型艦
脚注注釈
出典
参考文献
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