王政復古王政復古(おうせいふっこ、英語: restoration)は、共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す[1]。通常はイングランドにおける共和政崩壊後のチャールズ2世の即位、フランスにおけるナポレオン1世没落後のルイ18世の即位、日本の明治維新、以上三つのいずれかを指すことが多い[1]。 ヨーロッパイギリス(イングランドおよびスコットランド)→詳細は「イングランド王政復古」を参照
フランス
1792年8月10日、フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し王権を停止。翌1793年に国民公会がルイ16世の処刑を議決しギロチンで処刑した。以降フランスは共和政となった。 軍人であったナポレオン・ボナパルトは、革命後の混乱と武功を背景に、ブリュメール18日のクーデターによって統領政府の第一統領として実権を掌握。1804年5月の元老院決議、同年11月の国民投票を得て「フランス人民の皇帝」としてボナパルト朝を開闢した(フランス第一帝政)。1812年のロシア戦役での大敗により転機が生じ、第六次対仏大同盟の前に大敗を喫し、1814年3月のパリ陥落に至る。ナポレオン1世はフォンテーヌブロー条約によって退位し、エルバ島へ追放された。 諸外国の利害の不一致や内外の混乱を前に、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール元外相の画策により、ルイ16世の弟ルイ18世が1814年憲章を公布してブルボン朝を復興した。翌1815年、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、3月にパリに入城して復位する。ルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗北して失脚(百日天下)すると、帰国した。1824年にルイ18世は崩御し、王弟シャルル10世が即位した。しかし反動政治によって、1830年に七月革命によって廃され、ルイ・フィリップが即位してオルレアン朝が成立したが、1848年に二月革命によって王政は廃止された。 ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンは、二月革命による王制廃止後に帰国し、同年12月に知名度、資金力、両王党派(正統王朝派とオルレアン派)の支持により大統領に当選する。1852年1月、1852年憲法を制定して独裁体制を樹立し、同年12月に国民投票を経て皇帝即位を宣言した(第二帝政)。外交的成功により支持を受けたが、メキシコ出兵の失敗を経て、1871年に普仏戦争で完敗を喫し、退位を余儀なくされた。 ナポレオン3世退位後の選挙でパリ以外の選挙区で王党派が勝利、王党派のパトリス・ド・マクマオンが大統領に就き、両王党派もジャンポール伯アンリ・ダルトワ(シャルル10世の孫。アンリ5世と称す)を擁立することで話が着き、事実上王政復古が完了した状態にまでこぎ着けた。しかし、当のジャンポール伯が即位の条件として要求されたフランスの三色旗の受け入れを頑なに拒否した結果、千載一遇のチャンスを逃し水泡と化した。ジャンポール伯の頑迷さに失望したレジティミストと、利害の一致で手を組んだだけのオルレアニストはジャンポール伯の死後にパリ伯フィリップ(ルイ・フィリップの孫。フィリップ7世と称す)の擁立を考えるも、1883年にジャンポール伯が亡くなった時、既に共和制容認論が世論に広がっており、選挙で共和派に敗北し王政復古の望みは潰えた。 以後、フランスには共和政が定着し、今日に至る。 スペイン1873年2月に王制が廃止されて共和政(第一共和政)が短期間敷かれていたが、1874年12月に最初の王政復古が行なわれて共和制が廃止された。 1931年の自治体選挙で共和主義派が勝利したのを受けてボルボン朝のアルフォンソ13世が退位、第二共和政が成立した。 しかし政情は安定せず、スペイン内戦の後にフランシスコ・フランコの独裁体制(フランコ政権)が1939年に固まった。フランコ自身は王政復古を望んでいたが、王位継承権者であるバルセロナ伯フアンがフランコ体制を支持せず、フランコ自身が首相と摂政を兼ねる総統に就任して全権を掌握する独裁体制が続いた。その後、1967年にバルセロナ伯の息子フアン・カルロスが国王候補に指名され、1975年にフランコが死去するとブルボン朝による二度目の王政復古が行なわれた。 ポルトガル→詳細は「ポルトガル王政復古戦争」を参照
1580年、ポルトガル王国はエンリケ1世を最後にアヴィス王朝の男系が断絶し、姻戚関係にあったフェリペ2世(母がポルトガル王女イサベル、妃が同マリア・マヌエラ)が首都リスボンを陥落させ、スペイン王国との同君連合を成立させた。 1640年のポルトガル貴族の叛乱を皮切りに、アヴィス王朝の支流であるブラガンサ家(アヴィス朝初代国王ジョアン1世の庶子アフォンソが祖)のジョアン4世が推戴され、1660年のイングランド王政復古の影響も受けつつ、1668年のリスボン条約によりスペインからの独立(ブラガンサ家の正統性の承認、植民地の回復)を果たした。 一連の戦争は『喝采戦争』と呼ばれていたが、19世紀に『王政復古戦争』の名が付いた。 ギリシャギリシャ王国では1923年に総選挙で共和派が勝利した。翌1924年12月の国民投票で共和制への移行が決定し、国王ゲオルギオス2世は亡命した。しかし汚職の横行と世界恐慌の影響で政治的に行き詰まり、1935年11月3日の国民投票で王政復古が決定した。 その後、1967年にパパドプロス大佐のクーデターによって国王コンスタンティノス2世が追放され、1973年に共和制の復活が宣言され、翌1974年12月の国民投票でも承認された。 アジア日本
→詳細は「建武の新政」を参照
元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒して政権を奪還し、建武の新政を始めた。天皇親政の官僚国家の樹立が目指され、関白・摂政の廃止、雑訴決断所以下各部局の新設、国司・守護の併設などの統治機構整備が行われた。延喜・天暦の治への復古を理想としたが、武士階級の反発を招いて短期間で崩壊した[2]。
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受け、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇より王政復古の大号令と呼ばれる天皇親政宣言が発せられた。その中で(1)(慶喜の)将軍職辞職を勅許、(2)江戸幕府の廃止、摂政・関白の廃止と総裁、議定、参与の三職の設置、(3)諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された[3]。 同日開かれた小御所会議で慶喜の辞官と納地の返還を命じられたことで、朝廷軍と幕府軍の武力衝突(戊辰戦争)が生じたが、翌年までに朝廷軍が勝利し、その間の明治元年1月15日(1868年2月8日)に各国公使に王政復古が通告され、中央政府機構の整備が行われた[3]。神武創業を掲げて古代王制への復古を理想とした。[3]。 中国→詳細は「張勲復辟」を参照
辛亥革命後の1917年(民国6年)に、清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀が、再び皇位に復帰した。この時に、溥儀の治世で使われた元号である宣統が再使用され、年表記が「民国6年」から「宣統9年」に変更された。この溥儀の復位は張勲復辟と呼ばれている。しかし溥儀の復辟は12日間で撤回され「民国6年」に戻った。 カンボジア1970年3月17日、当時の国王ノロドム・シハヌークが外遊中に、ロン・ノルによるクーデターによって王制が打倒され、クメール共和国が樹立。以後、民主カンプチア、ヘン・サムリン政権、カンボジア内戦等の激動の歴史を経て、国民議会総選挙により1993年に立憲君主制を採択。シハヌークが国王に復位し、王制復古が実現した。 ネパール1951年ネパール王国のゴルカ朝(シャハ朝)では、1846年以来ラナ家が独裁権力を掌握して宰相を世襲し、シャハ家は名目のみの王家となっていた。1950年、トリブバン国王はインドに亡命。宰相モハン・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナはトリブバンの孫で3歳のギャネンドラを国王に擁立するが、これは周辺諸国の承認を得られなかった。 1951年2月、トリブバン国王はインドから帰国すると、104年間にわたるラナ宰相家による支配の終わりを宣言した。なお、廃位されたギャネンドラは50年後の2001年に発生したネパール王族殺害事件後に復位することになる。 2005年2005年2月1日、ギャネンドラ国王は、シェール・バハドゥル・デウバ首相を解任、議会を無期限解散し、国王による直接統治(国王親政)を宣言。立憲君主制から絶対君主制への「復古」を行った。しかしこれは反独裁運動の高まりを招き、2006年4月に親政は終焉する(ロクタントラ・アンドラン)。 旧王族が権威・権力を再度得た例政体としての王政復古に至らないが、旧王族が権威または権力を再度得た事例に、以下がある。
王政復古の動きポルトガル→「ポルトガル内戦」も参照
ポルトガル王国(ブラガンサ王朝)では、1826年にジョアン6世が崩御すると、実質的な長男であったブラジル皇帝ペドロ1世が継承権を持ったが、彼は王位を辞退し、娘のマリア王女を王位につけようとした。そのため、ペドロ1世の弟であるミゲル1世と対立し、1828年にポルトガル内戦が勃発した。最終的にミゲル1世が敗北し1834年に追放された。以後、女王マリア2世の子孫が王位に就いていたが、1910年に王政が廃止され、追放された。最後の国王マヌエル2世には、子孫はいない。 こうした経緯から、王政復古支持者もミゲル1世の子孫を支持するミゲリスタと、ブラジル皇帝ペドロ1世の子孫を支持する立憲派に分裂していた。しかし、ミゲル1世の孫ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサは、マヌエル2世から立憲派王位請求者の地位を引き継ぎ、さらにブラジル皇帝ペドロ1世の子孫であるマリア・フランシスカと婚姻したことから、ブラガンサ家の王位請求者はドゥアルテ・ヌノ次いで、その子であるドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサに一本化されている。 1950年になって、ポルトガル共和国は1834年と1910年の追放令を撤回し、ドゥアルテ・ピオの帰国が叶った。2019年、ポルトガル議会に、ドゥアルテ・ピオに国家の儀礼的代表の地位を与える法律案が提出された[4] 。 ブラジルブラジルは、過去、帝国だった。最後の皇帝ペドロ2世の子孫は、今でもブラジル国内に住んでおり、ブラジル国民の中には、ペドロ2世の子孫の皇位復活運動を展開している者もいる。保守傾向の社会民主党議員の中にも、帝政復活を支持する議員がいる。1993年、ブラジルでは統治形態に関する国民投票が行われ、3分の2が共和制を選択する一方、13.2%は君主制を選択した[5]。2018年現在のブラジル帝室の長はペドロ・カルルシュである。 脚注
関連項目 |