産業計画会議産業計画会議(さんぎょうけいかくかいぎ)(1956年 - 1971年)とは、政財界の実力者松永安左エ門が主宰した私設シンクタンクである。 主に経済問題を対象に国家的政策課題に関して政策提言を行った。 概略「電力王・電力の鬼」と呼ばれ、財団法人電力中央研究所の創設者であり理事長でもあった松永安左エ門が、戦後日本の再建を目的に主宰した私設シンクタンクである。1956年3月15日発足。 検討対象が国家的政策課題の規模であった事と、松永の人脈により政・財・官・学の重鎮が委員として参画したためその影響力は大きく、事実上の政府の諮問機関であった。 検討は毎週研究会方式で進められ、現地視察も行われた。検討成果の政策提言として産業計画会議レコメンデーション(勧告)の名称で16件の報告書を発行され、報道発表とともに内閣総理大臣、関係大臣、衆参両院、関係省庁へ届けられた。 電力中央研究所が松永のブレイン役と運営を担当した。松永の死後、後継者がいなかったことから、産業計画会議は解散となった。 設立趣旨設立の趣旨を結成時の松永安左エ門の言葉から引用する。
産業計画会議レコメンデーション(勧告)[2]産業計画会議レコメンデーション(勧告)の内容は脚注で示した引用資料が電力中央研究所により公開されている。
第一次勧告「日本経済たてなおしのための勧告」[1]1956年(昭和31年)9月14日政府はこの勧告を受け入れ、道路政策や税制についても予算に組込み、輸入エネルギーのための外貨の輸入枠を多く取ることになった。 第二次勧告「北海道の開発はどうあるべきか~産業計画会議のリコメンデーションとその反響~」[3]1957年(昭和32年)1月16日政府は1947年に北海道開発庁を内閣直属で設置し、国内の人口の北海道への移動(目標170万人)と食料増産を目的として北海道開発5ヶ年計画(昭和27年度(1952年4月)〜昭和31年度(1957年3月))で北海道の開発を重点的政策に掲げていた。本会議の第二次勧告はこの間の人口増の実績50万人に対して、自然増43万人、自衛隊の駐屯による増が5〜6万人で、人口移動の実績は1〜2万人で成果が上がっていない事を指摘して、北海道開発の政策転換を求めたものであった。 本勧告では北海道開発の失敗の原因について、北海道を日本に残された人口希薄、資源未利用の土地として開発するに当たり、北海道に適した産業の検討の不十分なままに食料増産を目的として人口の移動と土地の開墾、入植という農業本意な選択した事、また農業の中でも米作を主とした事が農業の適地性と合わず、農家の脱落、離農を招くなど産業発展を妨げたとして、計画段階のアプローチに原因を求めている。 北海道開発庁はすぐに反論を発表した。しかし北海道大学教授中谷宇吉郎は「北海道開発に消えた八百億円」の論文を文藝春秋に発表し、過去の政府の開発計画の誤りと第二次勧告への賛成を発表し、朝日新聞、毎日新聞、北海タイムス等、いずれも産業計画会議の第二次勧告に賛成する論説を掲載した。このため、政府は第二次勧告を受け入れざるを得なくなった。 第二次勧告を発表する前に、松永は実際に北海道の開発状況を自分の目で確かめるため、鈴木貞一、島英雄、関四郎、永山時雄、井上繁(秘書)を同行し、チャーターしたDC3型機で四時間にわたり空から北海道を視察した。翌日も北日本航空のチャーター機で再び空から三時間の予定で視察したが、松永が自ら熱心に多くの視察位置を指示したため、予定の時間を一時間オーバーするほどであった。 第三次勧告「高速自動車道路についての勧告」[4]1958年(昭和33年)3月19日高速道路については、政府案の中央高速道(中央山岳地帯)がすでに進行していたので、産業計画会議と政府の間に政治問題が起こった。産業計画会議は、電力中央研究所などから、971人の延人員を動員し、実地調査をし具体案として、海岸高架路線案等を提示し、第三次勧告の方が土地買収費が安くすむことや、より利用度の高い東海道を優先的に着手すべきだと主張した。この実地調査に基づく第三次勧告も政府も受け入れざるを得ず、現在の東名高速道路・名神高速道路が生まれた。 第四次勧告「国鉄は根本的整備が必要である」[5]1958年(昭和33年)7月3日第四次勧告は、国鉄分割民営化の議論に国鉄の現役の総裁、常務理事、技師長も名を連ねたことから、日本中に賛否をまきおこした。松永は民間人の企業精神により企業性と自主性を強化し、近代的、合理的な経営を行うことが鉄道本来の輸送力強化につながることを運輸省に勧告した。しかし第四次勧告は政府に受け入れられず、国鉄は巨額の赤字を増やし続けた。最終的には1987年に分割民営化が実行され、鉄道網の経営という意味合いでは大きく改善したが、債務を引き継いだ日本国有鉄道清算事業団による償還は立ちゆかず、結局は国が債務を背負うこととなった。
第五次勧告「水問題の危機はせまっている」[6]1958年(昭和33年)7月3日日本は世界中で一番水に恵まれた国であるのに、利用法が間違っている為に、農業用水、工業用水、飲料水とも不足してきたと指摘した。その原因として、各省・所管の勢力争いにより、治水、利水、水資源の総合的な統一見解が得られず、玉虫色に終っていることを挙げた。 これには具体的に膨大な資料が添えて出されたので、農林水産省は第五次勧告を受け入れざるを得なかった。 第六次勧告「あやまれるエネルギー政策」[7]1958年(昭和33年)10月22日高度成長期を迎えて、日本の工業生産力を更に引きあげるには、多くのエネルギー源を必要とする、そのためにも国は真剣にエネルギー問題に取組む必要がある。 これは原油輸入を自由化して、燃料を石炭から石油に変える勧告であり、油主炭従問題としてジャーナリズムを賑わしたが、この実現によって九電力会社は電力設備の近代化を推し進めることが出来た。その結果、電気を安く使えるようになり、クーラーや冷蔵庫や洗濯機が急速に各家庭に普及した。
第七次勧告「東京湾2億坪埋立てについての勧告」[8]1959年(昭和34年)7月29日東京都心の人口増加に対する解決策として、東京湾の3億坪のうち2億坪を埋立てて、工場敷地、住宅、交通の問題を解決しようとする計画であり、「ネオ・トウキョウ・プラン」と称された。この埋立地の中に飛行場、貿易センター、官庁用地、自動車専用道路(高架又は地下式の幹線道路)を設け、これに対する工業用水、水道用水は利根川から送水することにする。これを実施するには、政府・民間各50%出資の特殊会社を設立する。この費用の総額は4兆円。実行にあたり調査費40億円は国家が負担するという巨大な計画であり、実行には移されなかった。しかし、この段階で部分的に埋め立てが行われていれば、成田空港問題や、東京湾の再埋立などを避けられたとされる。「ネオ・トウキョウ・プラン」の一部として東京湾を囲むように8の字の道路を敷設するという計画があり、この計画の中に後の東京湾アクアラインや東京湾口道路に類似する道路計画も盛り込まれていた。 東京は大部分を多摩川の水に頼り、足りない分を相模川から取水していた。しかし都心の全戸を水洗化した場合、水が足りなくなる。そのために政府は一日も早く、利根川開発庁を政府機関として発足させ、利根川本流の岩本地点に高さ125mの沼田ダムを造り、これにより1975年中の水飢饉は回避できる。沼田ダムにより2200戸の人家と1200ヘクタールの田畑が水没するが、これらは芦ノ湖の4倍になる湖面と付近の温泉地などとくみ合わせ観光地の産業で吸収するほかに、農家は赤城山麓に新しい田畑を開拓して収容する。またこのダムにより130万kWの発電所を建設する。この勧告は住民の反対もあり進展しなかった。 第九次勧告「減価償却制度はいかに改善すべきか」[10]1959年(昭和34年)7月29日第十次勧告「専売制度の廃止を勧告する」[11]1960年(昭和35年)2月25日たばこ、塩、樟脳、アルコールの専売制は廃止。専売公社を民営化する。たばこは三つか四つの民間企業に払い下げて、財政的にはビールのように消費税を徴取する。この勧告に対して、専売公社は葉たばこ耕作者が失業するなどと反対し続け、すぐに実現しなかった。しかし、この勧告は1985年(昭和60年)に日本たばこ産業が誕生[12]したことで現実になる。 第十一次勧告「海運を全滅から救え~海運対策の提案~」[13]1960年(昭和35年)12月15日戦前、アメリカ合衆国、イギリスについで世界第三位の海運国であった日本は、戦争によりほとんど全部の船を失った。その後政府は「計画造船」策をとり1957年頃には、ほぼ戦前の水準に回復したが、海運業は無配が続き、資金の償却も出来ない状況にあった。この状況を放置すれば、海運界は存立の危機に追い込まれ、日本の貿易に大きな痛手となる。海運業の最大の問題は、多大な金利の負担であり、これを改善するよう勧告した。 この勧告に従い、政府は1963年7月に以下の海運再建関連法を公布した。 第十二次勧告「東京湾に横断堤を~高潮と交通の解決策として~」[14]1961年(昭和36年)7月20日東京湾に伊勢湾台風級の、風速40m・高さ5mの高波が満潮時に起きた場合、江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区、足立区は全部浸水し、台東区、荒川区、北区、板橋区、大田区、中央区、千代田区も一部浸水となり、被害額を約5千億円と見積もった。 これを避けるために、川崎市-木更津市間に、高さ5m、幅200m、海底28mの防潮堤を作り、木更津側は1kmの橋梁、川崎側は1kmの海底トンネルを結び、その一手ロ間はそれぞれ航路とする。 これは、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社を手本にして考えられたもので、空港、港湾運営や道路、都市経営の立案など、日本の統一されていない行政の欠陥の是正を勧告したものである。1957年8月に、松永安左エ門は吉田茂元内閣総理大臣と相談し、この道の権威である、ヤンセン、ドロンカースなどを日本に招き、詳細な調査を依頼し、9月には両人から調査報告書が提出された。政府もその重要さは認め、建設省では懸案事項としたものの、経費の事情で実現は延期となった。 しかし、この勧告は、1979年9月20日に『東京湾横断道』(現在の東京湾アクアライン)に形を変えて、川崎市と木更津市をトンネルで結ぶ計画が、建設省と日本道路公団によって発表された。また道路と併設する形で新交通システム(現在の東京モノレール)が建設された。 第十三次勧告「産業計画会議の提案する新東京国際空港」[15]1964年(昭和39年)3月4日羽田空港の許容量が逼迫したことから、運輸省は首都圏の新空港案を諮問機関の航空審議会に諮った。 1963年12月11日、審議会は1970年までに700万坪の空港を作ることや、 の3案を有力候補地として答申し、中でも富里が羽田空港や百里飛行場の管制上の影響を受けないことなどを理由に最有力候補とした[16]。 一方産業計画会議は、既存の施設との調整や建設管理の問題にこだわるあまり十分な技術的経済的な調査に基づかず空港建設候補地が決定されようとしていることを憂慮し、来るべき超音速機時代のアジアの新しい中心的国際空港建設について調査した。 産業計画会議の勧告では候補地の条件としては、優先度順に
を挙げた。 更に具体的な候補地として を挙げ、なるべく多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うべきとした。 また、新空港の開港は1969年までに使用を開始し得る状態になることが望まれるとし、新空港の建設整備と運営については官業や公団でなく特殊会社方式の採用を勧告した。 しかし、政府は下記の理由から審議会の答申を大幅に見直すことなく1966年6月に新東京国際空港公団法を可決し、同年11月に富里案を内定。さらに住民の大規模な反対運動にあったことから規模を縮小して国有地・公有地が多かった現在の成田国際空港の位置で新空港建設が進められることとなった(→成田空港問題)。なお、新東京国際空港公団は2004年に成田国際空港株式会社として特殊会社に移行している。 なお、この勧告は、埋立による空港建設を推進する河野一郎が松永安左衛門や浚渫業を営む小川栄一らに働きかけて出されたものだといわれる[17]。
運輸省は、産業計画会議勧告のうち、空港を可能な限り東京に近いところに建設すべきであること・空港は可能な限り大規模なものとすること・空港の供用開始時期をできるだけ早期とすることについては意見が一致しているとしつつも、以下の点において否定的な見解を述べている[18]。
第十四次勧告「原子力政策に提言」[19]1965年(昭和40年)2月10日将来のエネルギー源とされた原子力発電について、当時、多くの解決すべき技術的課題があった。政府に明確な政策を求めるとともに、原子力発電技術の開発は国際協力が必要なので、利害が一致する相手国を定め、対等の立場の協力関係を構築するよう勧告した。 また、政府に今後10年間に5000億円程度の原子力発電技術の研究費を要望した。 第十五次勧告「危険な東京湾~東京湾海上安全に関する勧告~」[20]1967年(昭和42年)4月26日第十六次勧告「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」[21]1968年(昭和43年)7月17日その他上記の勧告の他、経済企画庁の依頼による以下の調査研究を実施した。
構成者
脚注注釈出典
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