白木秀雄
白木 秀雄(しらき ひでお、本名:柏倉 秀康[1][2]、1933年1月1日 - 1972年8月22日頃[3])は、日本のジャズ・ドラマー[1][2]。 経歴東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)の酒屋に生まれる。錦城中学校を経て東京芸術大学音楽学部打楽器科に入学(のちに中退)。白木が入学した年の芸大打楽器科の新入生は2名だけで、もう1人は指揮者の岩城宏之であった。芸大在学中にキジ西村(西村喜次)の勧めでブルーコーツに参加し、ジャズ・ドラマーとしてのキャリアを開始した。 レイモンド・コンデとゲイ・セプテット、河辺公一とゴールデン・チャリオティアーズを経て、1953年に初のリーダーバンド、白木秀雄トリオを結成するが間もなく解散。小野満とフォアブラザーズ、与田輝雄とシックス・レモンズを経て渡辺プロダクションに所属し、1957年4月に白木秀雄クインテットを結成した。同年に制作された石原裕次郎主演の映画『嵐を呼ぶ男』では、石原のドラム演奏シーンにおいてドラムのアテレコを担当し、映画の主題歌『嵐を呼ぶ男』のシングル盤ではバック演奏も担当した(「白木秀雄とオールスターズ」名義)。 1959年には水谷良重と結婚し(1963年離婚)、時代の寵児としてマスコミを賑わせた。 1961年、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズの初来日の際、ブレイキーとの初競演(ドラム合戦)を果たした。同年6月にスタートしたテレビ番組「シャボン玉ホリデー」には、所属する渡辺プロの共同制作番組であったこともあり、白木は頻繁に出演している。この番組の企画でクレージーキャッツのハナ肇とドラム合戦も行った。 1962年5月、米のドラム・メーカーの招きで渡米。その際、以前から親交のあったホレス・シルヴァーとの共演を果たした。 1965年10月、ヨアヒム・ベーレントの招きに応じて白木秀雄クインテットとしてベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演するが、帰国後、白木のわがままに耐え切れなくなったメンバーが次々に脱退した。新メンバーを迎えたものの仕事は激減し、クインテットは1968年5月に解散となり、同時期に白木は渡辺プロダクションから解雇された(メンバーチェンジ以降赤字続きだった)。 1969年頃にジャズ界から離れていたが[1]、1972年9月1日、赤坂のアパートの自室で死亡しているところを発見された[1][2]。行政解剖によると、死因は精神安定剤の過剰摂取と見られ、発見された時点で死後10日ほど経過していた[3]。 白木秀雄クインテット上述した脱退の影響もありメンバー経験者は多い。トランペットでは福原彰、小俣尚也、仲野彰、日野皓正、テナーサックスでは宮沢昭、松本英彦、村岡建、稲垣次郎、ピアノでは八城一夫、世良譲、大野雄二、ベースでは栗田八郎、稲葉国光などが参加していた。 2000年代半ばに再評価の機運が高まり、主要盤はほぼ再発売された。 ディスコグラフィリーダー作品
コンピレーション
脚注外部リンク
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