福島区
福島区(ふくしまく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。大阪都心6区の一角をなす。 概要菅原道真がこの地に立ち寄った際、元の地名を福島と改名したことが由来とされる。堂島より北に当たるこの地は江戸時代は近郊農村だったが、明治以降繊維産業などの大工場が建設され、周囲は中小企業の工場地帯となった。松下電器産業が福島区で創業したほか、現在でも印刷・製本工場や、自動車部品などの卸業者が多く立地している。戦前には阪大病院や大阪市中央卸売市場本場なども建設された。戦後は、西日本のビジネスの中心地である梅田に近いことから大阪駅からもギリギリ徒歩圏内の福島駅を中心にオフィスビルが建ち、工場移転後の跡地は住宅地や商業地になった。 1990年代以降、区内各所に大規模団地や超高層マンションが建設され、阪大病院の跡地には再開発によってほたるまちが建設された。ここには準キー局の朝日放送(ABCテレビ)本社が福島駅北側より移転してきた。 現在、福島区の大部分は住居地域となっており、JR野田駅周辺は空襲から免れた古い長屋や町屋が多く残っている。福島駅周辺にオフィスビルや商業地が集積し、阪神野田駅周辺にも商業地が集積している。区の西部に当たる地域には機械・金属製品工場が存在するが、近年急速に住宅地化が進んでいる。 面積は大阪市、および全国の行政区の中で、浪速区、東成区に次いで3番目に狭い。 歴史淀川(現:旧淀川)の河口に位置する福島区一帯は、河川土砂の堆積した三角州であった。縦横に分流した川に囲まれた葦が生い茂った島々は、難波八十島と呼ばれ現在でも福島・堂島・都島・難波島などという地名にその名残をとどめている。また、古くより福島の地は瀬戸内海へ向かう船の出発地として使われてきた。 福島天満宮の社伝によれば、平安時代の901年に菅原道真が、九州大宰府へ配転させられた際、当地の里人徳次郎が旅情を慰めたことをいたく喜び、この辺りを餓飢島と呼ばれていたのを福島と名づけたという。 1185年、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経が摂津国の港・渡邊津に兵を集めた。『平家物語』によれば、源義経と戦奉行の梶原景時がこの地の大きな松の下で軍議の評定を行い、対立したという。これを逆櫓論争という。現在、その場所である福島2丁目には逆櫓の松址碑が建てられている。 鎌倉時代には大阪湾沿岸の島や洲であった福島区の土地も、寺社や貴族が荘園として所領に組み込んでいった。 現在の鷺洲から北区大淀付近は鷺島荘という四天王寺の所領であったと、北区大淀の勝楽寺の大般若経の裏書に記されている。また、現在の福島付近は北条氏ゆかりの浄金剛院の院領であったと『招慶門院御領目録』に記されている。 室町時代の1364年には、足利義詮が住吉詣の途中、野田に立ち寄り、玉川の藤を見て「いにしえの ゆかりを今も 紫の ふし浪かかる 野田の玉川」と詠んだ。その後、玉川の藤は「吉野の桜、野田の藤」と並び称せられた。 室町時代になると、大覚寺(尼崎市)や崇禅寺、広隆寺、大徳寺の荘園も築かれた。 1532年には本願寺光教(証如)が福島砦を視察した時に近江観音寺城主六角定頼に包囲されたため、野田・福島の門徒が救援に駆けつけ危機を脱したが、この時に定頼軍との戦いで戦死した門徒21人を野田二十一人衆という。現在も二十一人討死の碑が玉川4丁目に建てられている[1]。 1531年細川氏と三好氏が抗争していた時に、細川氏と同盟を組んでいた浦上村宗が野田城を築城した(中嶋の戦い)。1570年、畿内での勢力回復を図る三好氏は、野田城を増築させて籠城し、それに呼応し、石山本願寺が織田家打倒の武装決起(野田城・福島城の戦い)したが、1576年織田信長の猛攻により落城した。このほか、福島城・海老江城・浦江城が存在したという記録もあるが場所などは明らかでない。 安土桃山時代の1594年、豊臣秀吉は野田藤を訪ね茶会を開いた。このとき曽呂利新左衛門に書かせた「藤庵」の額を藤氏に贈ったといわれる。現在も下福島公園に藤庵の庭が復元され残っている。 江戸時代には西成郡の大川と中津川に囲まれた地域を「南中島」といい、現在の北区と福島区の大部分はこの地域に属していた。行政区として上福島村・下福島村・野田村・浦江村・海老江村が置かれ、1620年以降幕末まで江戸幕府の直轄地となった。 元和期以降、大坂市中の河川開削や市域整備が行われ、堂島川、土佐堀川、江戸堀川沿いには各藩の蔵屋敷が次々に置かれた。現在の福島1丁目・2丁目には松山藩・福山藩・人吉藩・臼杵藩・長岡藩・広島藩・名古屋藩・秋田藩・久留米藩・延岡藩・中津藩・富山藩・壬生藩などの蔵屋敷が置かれていた。 大坂の港は菱垣廻船・樽廻船・北国廻船の基点となり大いに繁栄した。これら大型商船は大坂市中の堀川・河川には乗り入れることができなかったため、河口付近に停泊させ、上荷船・茶船といった川船に荷物を積み替えて輸送していた。福島区もこれらの川船業で栄えていた。 明治時代の1882年、江戸時代に行われた堀江新地開発による代替地であった安井九兵衛請所に安井村が成立した。1889年には攝津製油が野田村で創業し、1894年には大日本紡績、1895年には住友伸鋼所、1897年には大日本製薬、1901年には大日本アルミニウム製造所、1909年には島田硝子製作所が操業を開始した。1919年には現在の玉川1丁目に大阪工業試験所が開設され、工業化が急速に進んだ。 1918年には、大開2丁目でパナソニック(旧:松下電気器具製作所)が創立。当時、松下幸之助は23歳。妻むめのと後の三洋電機創業者である義弟井植歳男の3人での操業開始であったが、一般家庭への電化製品の普及とともに、急速に業容を拡大し、1922年には同町内に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工、その後1925年に大開3丁目にランプ工場を建設、1929年にも第二次本店・工場を竣工した。(同跡地は後に大開公園として整備され、松下幸之助創業の記念碑が2004年に建立された。) 第二次世界大戦のアメリカ軍による空襲で、福島区内の工場なども大きな被害を受け、昭和40年代以降の公害問題や、経済成長による工場用地拡張需要もあり、区内の大規模工場は次々と移転していった。 近年、福島区は大阪都心部に隣接した住居地域として、大規模団地・超高層マンションが次々と建設されている。そのため、高度成長期以来減少してきた人口が、近年急速に増えている。しかし、2008年に入り、住宅需要の低迷により区内で計画されていたマンション建設計画も着工延期されているものもある。 行政区の変遷1943年(昭和18年)4月1日に大阪市を13区から22区にする分増区が行われたときに、西淀川区の海老江・鷺洲と此花区の福島・野田地区に北区の一部(堂島浜)が加わり福島区が誕生した。 1975年(昭和50年)9月1日には、新住居表示となり現在の7町表記となった。
人口
※ 人口総数、男性人口、女性人口は国勢調査による[6]。
産業
※ 経済センサス 2014年(平成26年)7月1日現在による[8]
※ 福島区役所 商業統計による[9]
※ 福島区役所 工業統計による[10] 区内に本社を置く企業東証プライム上場その他の企業(50音順)
区内が発祥の企業
区内の大規模事業所既存
閉鎖
交通鉄道バス道路港
教育大学
高校
中学校小学校幼稚園
施設公共施設
公園医療機関商業施設
社寺・史跡集合住宅超高層マンション
住宅団地福島区内には大阪市営住宅(旧大阪府営住宅含む)や公社住宅は一切存在しない。 通信施設福島区福島3丁目の阪神ダイヤビル[2]および北区堂島3丁目のNTTテレパーク堂島には、日本のインターネット網の基幹施設であるインターネットエクスチェンジが置かれている他、各社のデータセンターも置かれ、西日本の情報通信インフラの中心地である。
その他出身者実業文化・芸能
スポーツ
福島区ゆかりの有名人
ギャラリー
脚注
外部リンク |