若山牧水
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日[1])は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。 生涯宮崎県東臼杵郡坪谷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」[2] 1904年(明治37年)早稲田大学に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。土岐善麿、安成貞雄、佐藤緑葉も同級生で、ともに回覧雑誌「北斗」を作っていた。1908年(明治41年)早稲田大学英文学科卒業[3]。7月に処女歌集『海の声』出版。翌1909年(明治42年)、安成貞雄の紹介で中央新聞社に入社するが、5ヶ月後に退社。尾上柴舟の門に入った。 1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。この年、歌人・太田水穂を頼って塩尻より上京していた歌人で、のちに妻となる太田喜志子(1888-1968[4])と水穂宅にて知り合う。1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、水穂が仲人となり喜志子と結婚。1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)(1913〜98)誕生。その後、2女1男をもうける。 1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させる。 1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国する。翌1928年9月に日光浴による足の裏の火傷と下痢・発熱を起こして全身衰弱し、長年の大量飲酒による急性胃腸炎と肝硬変を併発して9月17日に沼津市の自宅で死去する[5]。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。戒名は古松院仙誉牧水居士。 牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。長男・旅人も歌人となり、沼津市若山牧水記念館の第2代館長をつとめた。 短歌の弟子としては、長谷川銀作・大橋松平・黒田忠次郎[6]・大悟法利雄・山下秀之助などがいる。 人物
という秩父の春を歌った碑がある。 作品歌集
紀行
刊行作品集
代表歌幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまな人[8] 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり[7] たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る[7] 足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる[7] うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花[9] 旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に 麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村 この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅の郵便切手あり 水無月の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機関車 妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ 釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を[10] 歌碑脚注
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