荻原井泉水
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 経歴東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという[1]。 長男・長女を幼くして失ったため、延命地蔵で占ったところ「今度生まれる子は男の子であるから、幾太郎と名づけよ。必ず長命する。」というお告げがあり幾太郎と名づけられる。荻原家は家督を継ぐものは代々「藤吉」を名乗ることとなっており井泉水もこれを継いだが、幾太郎の名を好んだようである。 麻布中学の頃より俳句を作り始める。正則中学、第一高等学校(一高)を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学文科大学言語学科卒業。1911年(明治44年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わる。この年、谷桂子と結婚。1914年(大正3年)自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。1915年(大正4年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去り「海紅」を主宰、袂を別つ。この頃、一高時代の同窓であり1歳年下の尾崎放哉と句会を通じて交際が始まる[2]。種田山頭火が層雲に加わる。しかし彼らが一同に面会したことはなかった。 1923年(大正12年)妻・桂子死去。翌年、母も死去し、一時仏道を志して京都の禅宗寺院東福寺の塔頭に寄寓、以降各地への遍歴の旅が多くなる。その心境の変化は句集の題名にも反映されてくる。1929年(昭和4年)芹沢寿子と再婚を機に鎌倉に転居。翌1930年(昭和5年)、長男海一誕生。昭和に入るとプロレタリア俳句運動が起こり、層雲からも栗林一石路や橋本夢道、横山林二らを輩出したが、後に彼らは井泉水と袂を分かっている[3]。 1940年(昭和15年)、大政翼賛会の発足とともに日本俳句作家協会が設立され、井泉水は理事に就任する。また自由律という名が左傾主義的であるとして内在律と呼ばれ、井泉水もこれに呼応した[3]。
しかし後の日本文学報国会俳句部会には参加せず、理事を辞任している[4]。 戦後も層雲の主宰として自由律俳壇を牽引し、1965年(昭和40年)、自由律の俳人としては唯一となる日本芸術院会員に選ばれる。また昭和女子大学の教授も務めた。1976年(昭和51年)5月20日、脳血栓のため鎌倉の自宅で死去。享年92(満91歳)と、門弟の放哉や山頭火と違い、延命地蔵のお告げ通り天寿を全うした。戒名は天寿妙法釈随翁居士[5]。 なお、俳号は当初、荻原幾太郎のイニシャルから愛桜(あいおう)としていたが、生年の納音(なっちん)から井泉水と改めた。ちなみに、山頭火も井泉水に倣い俳号を納音から付けたが、これは本人の生まれ年からでなく単に音の響きが良いので決めたようである。 カナモジカイ評議員を長く務めるなど、国字改良論に賛同した。 著作句集
評論・随筆
その他
翻訳
校歌
参考文献
注釈・出典関連項目外部リンク
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