菊池福治郎
菊池 福治郎(きくち ふくじろう、1925年5月18日 - 2004年2月5日)は、日本の政治家。元衆議院議員(7期)。 来歴宮城県気仙沼市生まれ。1950年(昭和25年)に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。その後、国会議員・保利茂の秘書を務めた。 1963年(昭和38年)、衆院選旧宮城2区に立候補するも、落選。その後も負けても負けても立候補を繰り返し、4回目の落選後は「登米郡の票の伸びが芳しくなかった」と、登米郡の街頭に1年365日毎日立って手を振り、人呼んで「人間地蔵」と評されるまでになった。 挑戦5回目の1976年(昭和51年)、新自由クラブの公認を得て初当選。その後、離党した同党幹事長・西岡武夫の後を追って離党、自由民主党に移籍し鈴木派に所属した。 議員就任後には、水産業界を背景とした水産族議員として知られるようになり、郷里の気仙沼市が強固な地盤となったことから、「気仙沼モンロー」と呼ばれた。また、サクマ製菓(東京)の支援も受けていた[要出典]。 衆議院農林水産委員会委員長に就任。 1990年(平成2年)の総選挙で落選するが、1993年(平成5年)の総選挙でトップ当選で返り咲いた。小選挙区比例代表並立制が導入された1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区宮城6区から立候補し新進党公認の大石正光を651票の僅差で破って当選するが、秘書である長男(修三)が連座制の対象となる公職選挙法違反(買収)を問われ、上告が棄却された1997年(平成9年)に議員辞職した。当選7回ながら、入閣の機会を得られないまま政界引退となった。 2004年(平成16年)、心不全により神奈川県逗子市池子の自宅で死去した。78歳没[2]。 脚注
|