野淵昶
野淵 昶(のぶち あきら、1896年〈明治29年〉6月22日[2] - 1968年〈昭和43年〉2月1日[3])は日本の舞台演出家、映画監督。 人物・経歴1896年6月22日、奈良県奈良市油留木町に生まれる[4]。同市の花芝町に暮らす祖父母のもとで育てられる[5]。祖父である野淵龍潜が1909年に亡くなった後[6]、現在の大阪府堺市に移住[5]。1914年、堺中学校(現在の三国丘高校)卒業後、同志社大学神学部、京都帝国大学文学部英文科で学ぶ[7]。 京都帝国大学在学中の1918年、エラン・ヴィタール小劇場を結成して日本の戯曲家では武者小路実篤、秋田雨雀、久米正雄、谷崎潤一郎らの劇、海外の戯曲家ではアントン・チェーホフ、アルトゥル・シュニッツラー、ロード・ダンセイニ、グレゴリー夫人、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケイシーらの劇を上演[8]。 1933年、滝川事件を契機にエラン・ヴィタール小劇場を離脱して[9]、翌年新興キネマに入社[10]。1935年、トーキー『長崎留学生』でデビュー後、1955年の『怪談牡丹燈籠』まで30本以上の映画を発表。エラン・ヴィタール主宰者、映画監督として活動する間に入江たか子[11]、沢島忠[11]、森光子[12]らを育成。 1968年2月1日午後3時25分、京都大学医学部附属病院で急性肺炎のために息を引き取る[11]。享年71。 監督作品
著書
外部リンク
脚注
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