鈴木敏夫
鈴木 敏夫(すずき としお、1948年〈昭和23年〉8月19日 - )は、日本の映画プロデューサー、編集者。株式会社スタジオジブリ代表取締役議長、徳間記念アニメーション文化財団副理事長。 徳間書店取締役、徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント、徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長、東京大学大学院情報学環特任教授、スタジオジブリ代表取締役社長などを歴任した。 来歴生い立ち愛知県名古屋市生まれ[1][2]。名古屋市立金城小学校、東海中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻を卒業[3]。 大学在学中は執筆作業など[4]多くのアルバイトを経験した。就職活動では執筆作業の経験があることから知人の助言もあって新聞社や出版社を志す。動き出したのが遅かったことから大半の入社試験が終わっていた中で、新聞で募集告知を見た徳間書店を受験。 更に、野球が好きだったことからスポーツ新聞社にも興味を持ち、その中で「当時ほとんどのスポーツ紙の一面がジャイアンツだった中で、ここだけ一面が東映フライヤーズ」「メジャーの記事がいっぱい載っていて、ここへ入るとアメリカへ行けるかな」と思ったことからスポーツニッポンも併せて受験。しかしこのスポニチの面接の時に面接官が服が乱れた状態でひっくり返って座っていたのを見て、面接に臨もうとする自分には失礼なように映ったこともあって「人の人生が決まるかどうかっていう時にその態度はないんじゃないですか」と口答えしてしまう。後日、スポニチが不合格になったのはこれが原因だったと言うことを明かしている[4]。 なお、スポーツニッポンの所属する毎日新聞グループが主催する「第78回毎日映画コンクール」(2023年の一年間の作品が対象)にて「特別賞」を個人受賞するとともに映画『君たちはどう生きるか』が「アニメーション部門 大藤信郎賞」に選ばれ、2024年2月に授賞式に出席(後述)[5]。3月には第96回アカデミー賞で同作が長編アニメ映画賞を受賞し、宮﨑駿と鈴木の両名に授与された[6]。 徳間書店大学卒業後の1972年、徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される[2]。1973年、成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部を経て[7]、同年黒崎出版より刊行されていた、児童向けテレビ番組雑誌『テレビランド』がオイルショックのあおりを受けて徳間書店へ売却され、編集スタッフごと移ったのを機に自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。 1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。80-81年、富野由悠季の連載「イデオン・ライナーノート」の担当編集者、「イデオン」特集も手がけた[8]。 1981年には『アニメージュ』にて、宮崎駿を初特集する。宮崎とは共同で『戦国魔城』と題した映画を企画し、徳間書店社長徳間康快に提出した[9]。結果は不採用であった。「原作のない作品をアニメ化してもヒットするわけがない」という判断であった。そこで鈴木は、まず「原作となる漫画を連載しよう」と宮崎に提案した。 1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力し、漫画は大ヒットとなる[10]。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう高畑勲を説得し[11]、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。 その後は、『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。『風の谷のナウシカ』映画化後は徳間書店側の制作委員も務めた。 『アニメージュ』で編集長をしていた時期に、西谷史の『デジタル・デビル・ストーリー』を手掛け、第1巻のタイトルを女神転生に決め、メディアミックス作品として現在も続く人気ゲームシリーズとなった[12][13]。 スタジオジブリ1985年6月15日、スタジオジブリ創設。その後も、鈴木はジブリ担当として徳間書店に在籍しながら、昼間はジブリに通って仕事を行い、夕方以降になってから徳間書店に戻って打ち合わせを行う生活を続けていた[14][15]。 1989年10月にスタジオジブリへ移籍して以降は、同スタジオのほとんどの作品で映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『火垂るの墓』などの作品は高い評価を得ながら興行成績は振るわず、高い人件費をかけているジブリの経営は火の車の状態であった。 経営的に『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であったが、そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。 メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた。』では、爆発的なヒットを仕掛けた宣伝プロデューサーとしての一面が収められている。しかし『ホーホケキョ となりの山田くん』や『イノセンス』では興行目標がクリアされなかった。 1997年、スタジオジブリが徳間書店に吸収合併され、社内カンパニーとして発足した「スタジオジブリ・カンパニー」のプレジデントに就任した。1999年、同書店が事業本部制を導入し、「スタジオジブリ事業本部」が設立されると、本部長に就任した。2005年、スタジオジブリが徳間書店から再独立した際には、代表取締役社長に就任した。2008年2月1日付でスタジオジブリ代表取締役社長を退任し(後任は星野康二)、以降は代表取締役プロデューサーを務めていた。 『イノセンス』で共同プロデューサーをした、もう一人のプロデューサー石川光久に「ジブリの社長をやってくれないか」と打診していたが断られている[16]。 2000年代の活動2003年公開の押井守監督作品の実写映画では短編『KILLERS キラーズ』で「悪徳アニメプロデューサー」役、2006年公開の『立喰師列伝』では立喰師役の一人(これは本人の懇願によって実現した)、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』のエピソード6では「『熱風社』」映像プロデューサー」として出演している。 2004年、東京大学大学院の情報学環にて特任教授に就任し、「コンテンツ創造プログラム」などを講じた[17]。 2016年に初の公開師弟対談を行う。対談相手は鈴木の下で仕事を学んだ石井朋彦。 2023年10月6日、日本テレビ放送網がスタジオジブリの株式を取得して子会社化したのと同時に、鈴木はスタジオジブリの代表取締役議長に就任した[18]。 本業以外に『耳をすませば』に端役で出演している。『ハウルの動く城』では宮崎監督に代わり、公式ポスターの原画を、『ゲド戦記』では題字を担当している。また、DVD『ノンちゃん雲に乗る』の中で、大橋のぞみに付く二枚目風運転手役で出演しその横顔を決めている。 対人関係
人物
略歴
受賞歴
作品映画
テレビ
CM
WEB
小説
その他
出演映画
テレビドラマテレビ
ラジオ
OV
ドキュメンタリー著書
評伝
脚注出典
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク
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