長野桂次郎長野 桂次郎(ながの けいじろう、天保14年9月16日〈1843年10月9日〉 - 大正6年〈1917年〉1月13日)は、幕末・明治の通訳、幕臣[2]。別名に立石斧次郎、横尾為八、米田為八、米田桂次郎。少年期に万延元年遣米使節に参加し、トミーの名で米国で話題となった。岩倉使節団にも参加。 略歴旗本・小花和度正の二男・小花和為八として江戸小日向馬場東横町(現・新宿区東五軒町)で生まれる[4]。母方叔父の通詞立石得十郎より蘭語・英語を学び、得十郎に従い伊豆下田で米公使タウンゼント・ハリスらより英語を学ぶ[5][4]。1858年長崎英語伝習所に入学、1859年神奈川運上所通弁見習となる[5]。 叔父の得十郎とともに1860年の万延元年遣米使節団に無給見習通詞・立石斧次郎として同行し、渡航中より船内の米人と親しく交わり、トミーの愛称で親しまれた[5][6]。この呼び名は本名の為八のタメから転じたとも[6]、船内のあらゆる所に出没することからピーピング・トム(覗き屋)のトムから転じたとも言われる[7]。米国到着後も、大人の使節たちが幕府に仕える武士として感情を露わにせずかしこまる中、陽気な少年トミーは観衆に投げキッスをするなど愛嬌を振りまき、使節団の道化的存在としてメディアの注目を集め、実は日本のプリンスであるなど虚実ないまぜで面白おかしく連日報道され、実物の日本人を初めて知る米国人の好奇心を掻き立てた[1][7]。英語ができ、快活で愛想がよく、気取らず社交的な少年と描写されたトミーは、米国の女性たちから何千通ものラブレターやプレゼントが届くほどの人気となり、雑誌の表紙を飾り、「トミー・ポルカ」という歌まで作られた[1][8][9]。 2か月間の滞在ののち帰国し、母方の米田姓に改名、御雇通詞となり、開成所教授職並出役、外国奉行御書翰掛を歴任、暗殺された通訳ヘンリー・ヒュースケンの代わりとしてハリスの指名により公使館の通訳も務めた[5][6][4]。下谷七軒町に英語塾を開き、三宅秀、益田孝、矢野次郎らが学んだ[4]。1865年歩兵指図役頭取勤方となり、第二次長州征伐に従軍、徳川慶喜の大坂城入りの際には、将軍に謁見するロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグ第3代米公使の通訳を務めた[5][6]。1868年に歩兵頭並となり、戊辰戦争では兄の重太郎とともに出兵し、今市(現・栃木県日光市)で兄を失い、自身も負傷した[5][6]。隊長の大鳥圭介とともに仙台に逃れたのち、幕府軍の武器調達のために武器商人エドワルド・スネルと上海に密航した。この時、欧州から帰国の途にあった徳川昭武の一行が同地に滞在していた。ただちにスネルと共に面会を申し入れ、徳川の御曹司である昭武の、旧幕府軍が率いる函館政権への合流を要請した。だが断られ、昭武の随員であった渋沢栄一に諭され、帰国した[4][10][11]。先祖に長野氏があったことから苗字を長野に改名した[10]。 1870年、遣米使節団で知り合った福沢諭吉の推薦により、かつて英語塾での教え子だった三宅秀の後任として金沢藩の中学東校(洋学校)の教授となった[5]。英語を教えるだけでなく、学生に爪の手入れを促し、書生の腰手ぬぐいを止めさせるなどハイカラな生活指導も行なった[12]。1871年には岩倉使節団に二等書記官・長野桂次郎として随行した。航海中には、津田梅子ら女子留学生に戯れをかけたとして模擬裁判にかけられた[12]。 1873年に帰国し、工部省鉱山寮に出仕したが、1877年の鉱山寮改組に伴い免職[5]。1878年、一家で北海道に移住して缶詰製造に従事するもうまくいかず、開拓使御用係の職を得、鈴木大亮に随行してウラジオストックに出張するなど外事課御用に従事したが開拓使廃止となり失職[12]。1882年農商務省所属鉄道部(茅沼炭鉱軌道)に移り、岩内鉱山主任となったが、1883年に炭山廃業のため帰農[4]。岩倉使節団で一緒だったハワイ総領事安藤太郎に同行して1887年一家でハワイに渡り、移民監督官を務める[5]。1889年に帰国後は妻の実家の援助で東京の芝で酒屋を開いたのち、大阪控訴院通訳官として単身赴任[5][12]。晩年は伊豆の戸田村に隠居し、当地で没した[5]。死の直前に受洗し、青山墓地に埋葬された[5]。 没後少年トミーとして米紙を賑わして以降、長い間忘れ去られていた人物だったが、トミーポルカの楽譜が米国人貿易商によって発見されたことが1980年に『毎日新聞』で報道され、孫の桜井成広が名乗りを上げ、その生涯が判明した[12]。 家族
トミー・ポルカ当時米国ではラテンダンス音楽のポルカが流行っており、彼の人気ぶりにドイツ人音楽家チャールズ・グローブが1860年に作曲した「トミー・ポルカ」 (Tommy Polka) が誕生し、使節団帰国後に社交界で大ヒットとなり、舞踏会で踊られた[9]。
ポルカのほか、1860年には異人種を揶揄するナンセンスな歌詞の The Great Japanese Embassy なる曲なども作られており、「ジャパニーズ・トミー」の芸名で人気となった黒人芸人のコミカルなミンストレル・ショーなどの影響もあり、米国における日本人男性に対する滑稽なイメージが形作られた[1]。 関連書
脚注
外部リンク
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