阿児町神明
阿児町神明(あごちょうしんめい)は、三重県志摩市の地名。1897年(明治30年)までは神明浦(しめのうら)という地名であった[2]。1996年1月1日現在の面積は6.98km2である[1]。 真珠養殖発祥の地であるとともに、志摩市の観光拠点である賢島を擁する地域である[3]。 地理志摩市中央部に位置する。本土部は谷と台地の交錯する複雑な地形を成し、南から西にかけて英虞湾に面する[3]。中心集落は津波や高潮を避けるため神明地区の中央部の台地上にある。 神明の産業は、農業と真珠養殖、観光業である[3]。神明地区に占める耕地面積の割合は1950年代の統計では48.4%と志摩郡の平均よりも低かった[4]。内湾では海女による漁業は全く行われていない[5] ので、英虞湾のみに臨む神明には海女はいない。 北は阿児町鵜方・阿児町国府、東は阿児町甲賀、南東は阿児町立神と接する。 島神明には以下の島がある。
新興住宅地神明北部には新興住宅地である「うらじろ団地」が開発されている[7]。 小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 6]。
歴史元始から近世先史時代から人々が居住していた痕跡が見られ、賢島の賢島遺跡からは石鏃・石錘・石斧が出土している[8]。中世には城があったとされ、「城山」と呼ばれる丘がある[2]。江戸時代には、志摩国英虞郡磯部組に属し、神明浦村(しめのうらむら)として鳥羽藩に属した[2]。村高は時代を追うごとに増加し、天和元年(1681年)は250石だったが、『旧高旧領取調帳』では352石余となった[2]。これは海を埋め立てて新田開発を行った結果である[8]。水産業も盛んに行われ、浜島村・波切村・和具村の海で漁業を行ったので、浦役として米を各村に納めていた[8]。近隣の立神村と漁場争いをした記録もある[9]。主な漁法は地曳網・立網・長網などの網漁であった[8]。特にぬきイリコ(きんこ)を多く産し、藩主へ献上していた[2]。文化年間(1804年 - 1818年)に阿波国の巡業師から人形と技術を受けて「神明文楽」が始まった[2]。 近代
明治初期の神明浦村は戸数100戸に満たない小村であったため、鵜方村あるいは立神村に服属することを求められた[11]。町村制施行時は、北隣の鵜方村と合併して新しい鵜方村の大字となったが、三重県庁による強制的な合併であり、神明浦の住民にとって納得のいかないものであった[12]。当時の鵜方は農村で、漁村の神明浦とは性格が異なっていたことから、同じ漁村であった立神村との合併の方が民意にかなっていたのである[12]。そこで神明浦の住民は合併後すぐに三重県知事に対して「分村願」を提出した[12]。この願いはすぐには認められず、神明浦の住民は鵜方村からの分離が認められるまで水産物の口銭(手数料)で里道補修費や学校運営費、医師の雇用費などを賄い、半ば自治を行っていた[2]。1893年(明治26年)、神明浦は「分村請願書」を内務大臣に提出、訴えが認められて1897年(明治30年)5月に[12] 鵜方村から分離して単独村制を敷いた[2]。この際、神明浦から「神明」に改められた[2]。 1890年(明治23年)、御木本幸吉は神明浦に進出し「真珠貝培養所」を設置する[13]。更に1893年(明治26年)には多徳島に真珠養殖場を開設、1916年(大正5年)には島内に郵便局[注 1]が開局した[WEB 7]。 1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現在の近鉄志摩線)が開通し[2]、神明村の賢島に終点が置かれた[14]。賢島はそれまで松林と少しの水田があるのみの無人島であったが、この鉄道開通を契機として開発が始まった[14]。昭和初期の真珠産出額は度会郡五ヶ所村(現・南伊勢町)に次ぐ三重県内第2位であり[15]、鉄道輸送の主役も旅客ではなく真珠であった[16]。 風俗研究家の岩田準一による聞き書きによれば、神明村時代は、出生届の提出を怠り、村役場から注意されるまで放置する親が多く、戸籍上の年齢と実年齢が10歳も食い違うということが珍しくなかったという[17]。次男・三男になると子供に命名すらしなかったので、役場が勝手に名前を付けるということもままあり、一方日常では周囲の人が呼び名を付けることから、戸籍上の実名と本人の認識する名前が一致しないという事態も発生していた[17]。役場の方も命名は面倒だったので、ある一家で長男が亡くなり、直後に次男が誕生した場合には、長男の名をそのまま次男に付けることも少なくなかった[17]。 歴代村長『阿児町史』による[10]。
現代昭和期1946年(昭和21年)、伊勢志摩国立公園が制定され、外貨獲得のために洋風のホテルを作ろうという機運が盛り上がり、1951年(昭和26年)4月3日に25室50人収容の志摩観光ホテルが賢島に開業した[18]。これは奥志摩(現・志摩市域)における宿泊施設整備の先駆けとなるものであった[19]。1965年(昭和40年)の統計では、真珠養殖筏数は5,212台あり、これは和具・布施田・越賀に次ぐ県第4位であった[20]。その後真珠ブームの到来によって密植が起きて養殖真珠の質的低下と価格の暴落を招き、個人の小規模経営者を中心に深刻な不況に陥るようになる[20]。 本格的な観光開発が始まったのは、真珠養殖不況と近鉄特急が賢島まで乗り入れるようになった1970年代以降である[16]。同時期には賢島とその周辺に企業の保養所が相次いで建設され、1995年(平成7年)時点では97軒存在した[21]。 地域住民向けには、1972年(昭和47年)に二男・三男に住宅を供給することを目的に、小字裏白の山林11.5haを切り開き、うらじろ団地が建設された[18]。当初245区画が造成されたが、その後300区画まで増加している[18]。 平成期1991年(平成3年)3月31日、神明北部に「阿児文化公園事業」の一環で、ホール兼体育館の阿児アリーナ(現・志摩市阿児アリーナ)と資料館機能も有する阿児町立図書館(現・志摩市立図書館、通称:阿児ライブラリー)が開館した[22]。 観光産業の面では、バブル崩壊後景気の悪化により1999年(平成11年)3月に賢島スポーツランドが閉園、1998年(平成10年)と1999年に近鉄系の旅館が2軒廃業した[23]。2009年(平成19年)には実質稼働している保養所は20 - 30軒程度まで減少した[24]。 2000年(平成12年)、三重県は志摩地方が日本有数の海底ケーブル陸揚げ地であることに注目し、情報技術(IT)による企業誘致や雇用促進を目指す「志摩サイバーベース・プロジェクト」を発足させ、その中核となる「志摩サイバーベースセンター」と第三セクター「サイバーウェイブジャパン」(CWJ)を設立、神明にある保養所の跡地を利用した[WEB 8]。しかしながら4年間に3億円を投じたにもかかわらず目立った成果を上げることができなかったため、2005年(平成17年)に志摩サイバーベースセンターを閉鎖[WEB 9]、2004年(平成16年)度の終了をもって、「志摩サイバーベース・プロジェクト事業の推進」が県の事業から外された[25]。なおサイバーウェイブジャパンは2015年現在も事業を続けている。 賢島スポーツランドは閉園後しばらくは手つかずのままであったが、2010年(平成22年)に「賢島ローズネットファーム」となり[WEB 10]、更に2011年(平成23年)からは「志摩ローズファーム」として再出発した[WEB 11]。 2015年(平成27年)6月5日、賢島が2016年の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の会場になることが決定した[WEB 12][WEB 13][WEB 14]。これを受け2016年(平成28年)2月16日、賢島駅前に臨時警備派出所が設置された[WEB 15][WEB 16]。(同年6月13日に閉所[WEB 17][WEB 18]。)そして同年5月26日・27日に伊勢志摩サミットが実施された[WEB 19]。サミットからちょうど1年となる2017年(平成29年)5月26日には伊勢志摩サミット記念館「サミエール」が賢島駅2階に開館した[26][27]。 地名の由来禁漁区の浜に注連縄を張り、そこで獲れたナマコを伊勢神宮や伊雑宮に奉納していたことから「しめのうら」(注連浦⇒神明浦)と呼ぶようになったことに由来するという[2]。別の説では、毎年師走(12月)になると恵利原村(現・志摩市磯部町恵利原)の逢坂へ注連縄を張りに行ったことから「しめのうら」となったという[17]。このように磯部との結び付きが強かったため、神明浦村は英虞郡の村でありながら、答志郡の村々で構成される磯部組に所属していたという[17]。 1897年(明治30年)に鵜方村から分離する際、「浦」が外されて「神明」となった[2]。 沿革
世帯数と人口2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 1]。
人口の変遷1746年以降の人口の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
世帯数の変遷1746年以降の世帯数の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
港湾地方港湾の賢島港と漁港の神明漁港がある。以下、神明漁港について記述する。 神明漁港(しんめいぎょこう)は三重県志摩市阿児町神明にある第1種漁港。漁港指定を受けたのは1989年(平成元年)12月6日であり、志摩市が管理する[WEB 23]。2009年(平成21年)の属地陸揚高と属人漁獲量はともに189.5tで、属地陸揚金額は274百万円である[WEB 23]。 2007年(平成19年)の『漁港の港勢調査』によると、漁獲金額は773万円で、主な漁獲物はノリ類・真珠・貝類であった[WEB 24]。志摩市の消防出初式において阿児アリーナで式典を行った後、消防団員が神明漁港で放水を行う[28][29]。 交通陸路
海路
施設賢島にある施設は賢島#施設を参照。
史跡
その他日本郵便脚注注釈WEB
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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