高坂正堯
高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年(昭和9年)5月8日 - 1996年(平成8年)5月15日)は、日本の国際政治学者、社会科学者、思想家。京都大学法学部教授。 京都府出身。京都大学法学部卒業、同大学法学博士。哲学者高坂正顕の次男。国際政治学や欧州外交史を専門とし、現実主義(リアリズム)の立場から理論を展開、以後の日本の国際政治学に大きな影響を与えた。主著に『古典外交の成熟と崩壊』『国際政治』『宰相吉田茂』『海洋国家日本の構想』など。 経歴1934年(昭和9年)5月8日、京都府京都市にて出生。高坂家の先祖は高坂弾正忠昌信と言われる。父の高坂正顕は西田幾多郎に学んだ京都学派の哲学者で、「近代の超克」を唱えた。 1953年(昭和28年)、京都府立洛北高等学校卒業。1957年(昭和32年)、京都大学法学部卒業、法学士。 同年4月、京都大学法学部助手。1959年(昭和34年)9月、同助教授。1960年(昭和35年)9月から1962年(昭和37年)9月にかけて、ハーバード大学客員研究員。また、1965年(昭和40年)10月から翌年3月タスマニア大学交換教授。 1971年(昭和46年)4月、京都大学法学部教授。 1973年(昭和48年)1月、国際戦略研究所客員研究員。1978年(昭和53年)9月、同理事(兼任)。 同年10月、『古典外交の成熟と崩壊』で、第13回吉野作造賞受賞。 1984年(昭和59年)、学位論文『古典外交の成熟と崩壊』により京都大学法学博士。 1986年(昭和61年)4月、財団法人平和・安全保障研究所理事長(兼任)1992年(平成4年)3月、同理事長退任。 他、東京都教育委員、経済同友会幹事、憲法問題懇談会委員長を務めた。 1996年(平成8年)5月15日、肝臓癌により逝去。享年62。 人物像大学では国際法学者の田岡良一や政治学者の猪木正道に師事。猪木は高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想している[2]。 現実主義の論客として著名で、見識が広く近現代日本の史論も多く著した。一般に社会科学者らの著作は時を経ると時代遅れになるが、高坂は没後20年以上経ても『現代の古典』として研究者・専攻学生たちに読まれ続けている[1]。 高坂が一般に知られるようになった契機は、『中央公論』誌での活躍からで、高坂は1963年にハーバード大学留学から帰国した直後に、当時『中央公論』編集部次長であった粕谷一希の依頼により「現実主義者の平和論」を同誌1963年1月号に寄稿、論壇にデビューした。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として論壇の注目を集めていた坂本義和らの「非武装中立論」の道義的な価値を認めながらも、実現可能性の難しさを指摘し、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張した。 さらに翌1964年に吉田茂を論じた「宰相吉田茂」は、吉田の築き上げた日米基調・経済重視の戦後外交路線をその内外政に即して積極的に高く評価し、否定的な評価が広まっていた吉田に対する評価を一変させ、現在に至る吉田茂への肯定的評価を定着させることとなる(また、同年に寄稿した「海洋国家日本の構想」では、島国の日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべしと論じて、この議論を補強する論を展開している)[3]。これらの論文を契機として、30歳前後にして高坂は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立することとなる[4]。 高坂は冷戦時代から共産主義国家に対しても、国内の中立主義と同様その理想の持つ魅力・意義を認めながら批判的な態度を取った。以後、時事的な外交評論のみならず、国際政治学、文明論などを含む幅広い分野において切れ味鋭い分析と提言を展開することとなる。その議論は人間の本性に即した権力構造を探求していたといえる。 高坂は進歩的文化人が主流だった当時の論壇では貴重なアメリカ重視の論客であったため、オピニオン・リーダーとしての言論活動だけでなく、「行動する学者」でもあり、1960年代以降、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘といった歴代総理のブレーンとしても長く活動することとなり、佐藤栄作のノーベル平和賞授賞に一役買ったこともある[5][6]。とりわけ有識者研究会を幾つも設置し、長期的な政策検討を行った大平内閣では、その一つである「総合安全保障研究グループ」の幹事として、報告の実質的な取りまとめを行った。軍事力による安全保障だけでなく、外交政策・経済・エネルギー・食料などを総合して日本の安全保障を追求すべしと論じた同グループの報告書は、高坂が肯定的に評価してきた戦後外交路線の性格を、戦略的なものとして実現しようとする意志の現れであったと評価する研究者もいる[7]。その後、1983年に設置された中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」でも座長を務め、防衛費1%枠見直しの提言を行ない、当時の防衛力整備の理論的根拠とされていた基盤的防衛力の見直しを提言した。 高坂は自民党の雑誌『月刊自由民主』に少なくとも73本の論考を掲載しており、岸内閣で外務大臣だった藤山愛一郎とは「岸時代と日米安保」について対談し、高坂は「岸さんという人は旧式のナショナリストなんですよ」と語っている[5]。 1969年11月、沖縄返還に向け訪米直前だった佐藤栄作首相とNHKテレビ番組「総理と語る」で対談したように、高坂はテレポリティクスの先駆け的存在でもある[8]。後年の1980年代末から1990年代の激動の時期には、コメンテイターとしてテレビ朝日系列「サンデープロジェクト」にレギュラー出演しており、あるとき高坂が京都の繁華街を歩いていると、「高坂はん、テレビで見てまっせ」と声を掛けられたという逸話があり、高坂は、京都の顔でもあった[8]。同じくテレビ朝日系列「朝まで生テレビ!」の初期にもパネリストとして出演した。番組内で交流のあった田原総一朗からは、「余人を以て代え難い方」「皆が全体像を見失ってしまうような時に、ビシッと問題の本筋を指摘して下さった、我々にとって、羅針盤のような存在であった」「未だに高坂さんに代わる学者のコメンテーターを見つけることができないでいる」と高い評価を受けた[9][10]。テレビ朝日系列「サンデープロジェクト」で交流のあった島田紳助は『高坂正堯著作集』月報において、「ほんとうに頭のいい人は、頭の悪い人(私)に、わかるように説明できるひとだと、つくづく思いました」「私がなんの学歴もない不良少年なのに、一人の人間として認めていただいたこと、ほんとうに感謝しております」「温厚そうな高坂先生ですが、車が大好きで、運転は荒いとご自分で自慢しておられましたし、一度鈴鹿にF1を見に行くと決まっていたのに、サンデープロジェクトの出演を依頼され、F1を諦めきれず、本番後、ヘリコプターに乗って鈴鹿に行かれたことがありました」と記している[9]。 京大退任後は、静岡文化芸術大学学長に内定していたが、1996年に肝臓癌のため死去。その死にあたっては、政治学者としては異例な数の追悼企画が様々な雑誌で設けられた。また、没後には戦後の言論、現実政治の双方に与えた影響から、高坂自身を対象とする研究評伝も現れている。 還暦前に運転免許を取得し、FC3S型RX-7を愛車としていた。また熱烈な阪神タイガースのファンとしても有名で、1985年に阪神がリーグ優勝した際サンケイスポーツに手記を寄せた[11]。なお高坂は高所恐怖症であったが、阪神が優勝した際の公約として奈良県十津川村の「谷瀬の吊り橋」を渡ることを掲げていたため、阪神が日本シリーズ優勝を果たした後の1985年12月に自身のゼミ生と共に踏破することとなった[12][13]。 交流高坂は国際政治学のパイオニアであっただけでなく、多くの優秀な研究者を輩出した教育者でもあり[5]、京都大学での門下生には中西寛、坂元一哉、戸部良一、田所昌幸、佐古丞、岩間陽子、益田実、中西輝政、多根清史などがおり、多くの研究者を育成した面でも名高い。また政治家(衆議院議員)となった前原誠司(民主党代表ほか)も、高坂正堯ゼミ出身であった。前原がゼミ在籍時に、外交官になるか学者として大学に残ろうか迷っていた際、「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんが、それほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスを行い、ともに松下政経塾から日本新党へ参画する山田宏(のち東京都議会議員、参議院議員)を紹介し、政治家としての道を志すことを決意させた[14]。また、他大学出身の研究者にも分け隔てなく接し、猪口邦子など師弟関係のない研究者からも信頼を寄せられていた[10]。またミャンマーの最高指導者であったアウンサン・スーチーも京大留学中に高坂の教えを受けている。 家系弟の高坂節三の回想で「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄は自らが戦国武将の末裔であることを非常に誇(ほこ)りに思っていた」という[15]。正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]。 著作
単著
共著
編著
共編著
訳書
著作集
テレビ出演(上記以外)
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク |