CD-ROM2
CD-ROM2[注 1](シーディーロムロム)は、1988年12月4日[1]に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器及びシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。読み方は「シーディーロムロム」[注 2]。愛称は「ロム・ロム」[2]。 欧米市場ではTurboGrafx-CD(ターボグラフィックスシーディー)の商品名で発売された。 家庭用ゲーム機としては世界初となる光学ドライブを搭載し、CD-ROMをゲームソフトとして採用したプラットフォームである[3]。 CD-ROM2及びSUPER CD-ROM2の普及により、PCエンジンのソフト供給はCD-ROMへ移行していく事になる。 沿革1987年10月1日インテックス大阪で開催された「'87エレクトロニクスショー」でプロトタイプとなるPCエンジン用CD-ROMユニットが初出品される。この時出品されたCD-ROMユニットは本体が青色で、CD-ROMドライブとインターフェイスユニットは一体化されており、PCエンジンはフロント右側に空けられたベイに挿入する形状だった[4]。CD-ROMドライブはキャディカートリッジを使用したフロントローディングが採用されていた。デモ用のソフトとしては「大通公園殺人事件[5]」という、画面がスチル写真のアドベンチャーゲームが使用されていた。 1988年6月16日にはプレス向け発表会を実施。続けて1988年6月16 - 19日に開催された'88東京おもちゃショーで一般公開された。形状は製品版とほぼ変わらないが、PCエンジンユニットが挿さる部分のサイド形状や各所のシルク印刷に若干の違いがあった。この時点で『天外魔境』は本体と同時発売と発表された。 発売時には『ストリートファイター』の家庭用初移植となる『ファイティング・ストリート』と、世界初の芸能人の実写画像や生音声による歌を収録したゲーム『No・Ri・Ko』がローンチタイトルとなったものの、PCエンジン本体の希望小売価格が24,800円と、ライバルのファミリーコンピュータよりも高かった[6]ところへ加え、CD-ROM2はインターフェースユニット込みで59,800円[7]であり、家庭用ゲーム機としては高価[7][8][注 3]であったため当初はほとんど普及しなかった。 その後、1989年6月発売の『天外魔境 ZIRIA』を皮切りに、同年12月発売の『イースI・II』、1990年3月発売の『スーパーダライアス』など人気タイトルを連ねることでCD-ROM2の持つ性能が認知された。ゲーム機への超高額投資ができるハイターゲット層を中心にそこそこ普及していき[注 4]、それを裏付けるように専用ソフトもハイターゲット層に人気のあるメディアミックス外部版権作品のキャラクターゲームが多く発売された。 成熟期にはHuCARDとCD-ROM2で同一タイトルをリリースし、CD-ROM2版は追加要素を付けて内容を豪華にする差別化も見られた。 ハードウェアPCエンジン本体背面に拡張バスを持つ機種に直接接続が可能だが、PCエンジンスーパーグラフィックスのみ形状の問題から接続アダプタRAU-30が必須である。 販売時のパーツ構成発売当時のCDプレーヤーは音響機器扱いで物品税がかけられていた。そのため、課税されるCD-ROMユニット(32,800円)と非課税のインターフェースユニット(システムカード付属、27,000円)を別売にすることで価格を抑えた[注 5]。 1989年4月より消費税が導入されたのに伴い物品税が廃止されたことで分ける必要がなくなったため、1パッケージでのセット売りに変更された(セットでの価格は57,300円)。
CD-ROMプレイヤーとインターフェースユニットが同梱して発売された際にCD-ROMプレイヤーは型番を削除された。なお型番の最後に“A”が付けられた物はCDアクセスエラー対策として内部基板などへのアース処理が強化されている。 CD-ROM2本機発売当時、ファミリーコンピュータのロムカセットの容量が数100KBであったのに対して、本機で採用されたCD-ROMは540MBの大容量である。そのため音楽CDと同様にCD-DAによる音楽再生または声優によるアフレコをゲームと同時に出力することが可能になった。またCDは再プレスが容易であり、一度原版ができればロムカセットと比較して低価格かつ量産時間の短縮が実現した。 一方で一度に扱えるデータ容量は本体メモリに依存するためローディング時間が発生する。 仕様
周辺機器
バージョンアップCD-ROM2はメモリを増強する事によって2回のバージョンアップを実施している。
ソフトウェア→詳細は「PCエンジンのゲームタイトル一覧」を参照
CD-ROMの物理フォーマットはYellow Book準拠であるが、論理フォーマットは独自のものを採用している[2]。 対応ソフトウェアには、いわゆるコピーガードは一切掛けられていない。これは開発当時、CD-Rといった一般向け記録型CD-ROMドライブも開発段階であり[注 6]、開発側がCD-ROMの複製自体が不可能であったと看做されていたためである。 CD-ROM2用ソフトのトラック1には「これはHE-SYSTEMのCD-ROM Discです。2曲目にコンピュータ用データが入っていますので再生しないでください。…間もなく2曲目に入ります、止めて下さい。」という警告メッセージが記録されており、メーカーのNECホームエレクトロニクスが準備したと推測される女性の声による標準メッセージが多く使われた。また、ソフトごとにゲーム登場キャラ(出演者など)によるCDドラマ形式による警告メッセージが採用されている例もある[注 7]。なお、SUPER CD-ROM2以降、有名な声優による音声演出を使用したキャラクターゲームが多く発売されたこともあり、後期以降のタイトルはキャラクター(または出演者)によるメッセージが主流となり、逆に標準メッセージを用いるタイトルは少数派となった。 CD-ROM2用ソフトウェアのNECホームエレクトロニクスへのマスターデータの納品は長らく8ミリマスターと呼ばれる磁気テープで行われていた。またAD-PCM等の音声データおよびCDオーディオ用データは一部DATで制作されていた。これはCD-ROM2発売当時CD-Rドライブ登場の端境期に当たっていたためである。 ローンチタイトルは『ファイティング・ストリート』[11]と『No・Ri・Ko』[12]の2タイトルで、最後のタイトルは1993年6月30日発売の『レインボーアイランド』である[13]。 課題と対策当初、ソフトの開発者たちは「CD-ROM2の方がHuCARDよりも面白いものができる」と考えていたが、のちに様々な障壁に直面した[14]。 まず、CD-ROM2のCDドライブが倍速読み込みに対応していないため、1秒程度のビジュアルシーンに数秒の読み込みが生じ、業務用のアクションゲームの移植作の中にはこれが悪評につながった例もあった[14]。一方、『イースI・II』の開発スタッフの一人である岩崎啓眞は読み込み対策としてメモリにCDオーディオを圧縮したことを後年のインタビューの中で明かしている[注 8][15]。加えて、RAMが64Kバイトしかない分一度に扱えるデータ容量が小さいため、ソフトの開発者たちは工夫を凝らした[14][16]。たとえば『精霊戦士スプリガン』の場合、1面のデータをなるべく最初にRAMに読み込ませることでゲーム途中での読み込みを減らし、音声データをCD側に記録するという対策がとられた[16]。また、『改造町人シュビビンマン3 -異界のプリンセス-』ではスムーズなゲーム進行を担保するためにグラフィック面で制約をかけていた[17]。 加えて、CD-ROMのプレスには時間がかかるため、例えば年末にソフトを売りたい場合、9月末までにはソフトを完成させる必要があった[14]。加えて、『イースI・II』の開発時点の原版作成(スタンパー)は1回150万円だった[15]。 また、容量にも限度があり、『イースI・II』の開発に際しては毎日のようにデータのパンクと圧縮を繰り返していたと岩崎は振り返っている[15]。岩崎は別のインタビューにおいても、1990年初頭の時点でハドソン社内ではRAMが64Kバイトでは限界なので拡張しようという話が出ていたと話している[18]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |