アラン・ジンター
アラン・マイケル・ジンター(Alan Michael Zinter, 1968年5月19日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。右投両打。 経歴プロ入り前1986年のMLBドラフト23巡目(全体584位)でサンディエゴ・パドレスから指名されたが、アリゾナ大学へ進学した。 プロ入りとメッツ傘下時代1989年のMLBドラフト1巡目(全体24位)でニューヨーク・メッツから指名され、6月20日に契約。契約後、傘下のA-級ピッツフィールド・メッツとA級セントルーシー・メッツでプレー。A級セントルーシーでは48試合に出場して打率.239、3本塁打、32打点を記録した。 1990年はA+級セントルーシー[1]とAA級ジャクソン・メッツでプレー。A+級セントルーシーでは98試合に出場して打率.291、7本塁打、63打点、8盗塁を記録した。 1991年はAA級ウィリアムズポート・ビルズでプレーし、124試合に出場して打率.220、9本塁打、54打点、3盗塁を記録した。 1992年はAA級ビンガムトン・メッツ[2]でプレーし、128試合に出場して打率.223、16本塁打、50打点を記録した。 1993年もAA級ビンガムトンでプレーし、134試合に出場して打率.262、24本塁打、87打点、1盗塁を記録した。 タイガース傘下時代1994年3月31日にリコ・ブローニャとのトレードで、デトロイト・タイガースへ移籍した。この年は傘下のAAA級トレド・マッドヘンズでプレーし、134試合に出場して打率.238、21本塁打、58打点、13盗塁を記録した。 1995年もAAA級トレドでプレーし、101試合に出場して打率.222、13本塁打、48打点、4盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなった。 レッドソックス傘下時代1995年12月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。 1996年は傘下のAAA級ポータケット・レッドソックスでプレーし、108試合に出場して打率.269、26本塁打、69打点、5盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。 マリナーズ傘下時代1996年11月29日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。 1997年は傘下のAAA級タコマ・レイニアーズでプレーし、110試合に出場して打率.287、20本塁打、70打点、3盗塁を記録した。オフの10月17日にFAとなった。 カブス傘下時代1997年12月4日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。 1998年は傘下のAAA級アイオワ・カブスでプレーし、129試合に出場して打率.287、23本塁打、81打点、3盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなったが、11月12日にカブスとマイナー契約で再契約した。 1999年はAAA級アイオワでプレーし、14試合に出場して打率.255、3本塁打、8打点を記録した。 西武時代1999年4月28日に西武ライオンズと契約。当時西武は、この年から入団していたグレッグ・ブロッサー、アーキー・シアンフロッコが全く打てないのが災いし、深刻な貧打に陥っていたことからジンターの獲得が決まった。ちなみにAAA級アイオワで同僚だった野茂英雄とバッテリーを組んだ経験もあり、野茂は「日本で活躍できる」と太鼓判を押していた。5月14日のオリックス・ブルーウェーブ戦で日本プロ野球史上6人目の「初試合満塁本塁打」を打つ(他には駒田徳広や井口資仁などが記録)など来日当初はそこそこに打っており一時期は4番も打っていたが、日本の投手に慣れられるには時間はかからなかった。なぜか日本ハムファイターズ戦には強く、7月初めの3連戦では3試合とも本塁打を打っているが、全体としてはジリジリと打率は下がっていき、2割割れが近付いてきた8月中旬に二軍に落ちると、そのまま一軍に上がることなく解雇された。 カブス復帰・ダイヤモンドバックス傘下時代1999年11月7日に古巣のカブスとマイナー契約を結んだ。 2000年はAAA級アイオワでプレーし、90試合に出場して打率.227、14本塁打、35打点を記録した。8月23日にトレードで、アリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。傘下のAAA級ツーソン・サイドワインダーズでプレーし、11試合に出場して 打率.361、1本塁打、5打点を記録した。オフの10月15日にFAとなった。 アストロズ時代2000年11月1日にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。 2001年は傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズでプレーし、104試合に出場して打率.265、19本塁打、65打点、1盗塁を記録した。 2002年はAAA級ニューオーリンズで開幕を迎え、63試合に出場。打率.231、11本塁打、39打点、2盗塁を記録した。6月17日にアストロズとメジャー契約を結んだ[3]。プロ13年目・34歳でようやくメジャーの舞台に立ち、翌18日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。7回表に代打として出場したが、一塁ゴロに終わった[4]。この年メジャーでは主に代打として39試合に出場して打率.136、2本塁打、3打点を記録した。オフの10月15日にFAとなったが、12月20日にアストロズとマイナー契約で再契約した[5]。 2003年はAAA級ニューオーリンズでプレーし、114試合に出場して打率.254、17本塁打、57打点、1盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。 ダイヤモンドバックス時代2003年11月12日に古巣のダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。 2004年はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場して打率.206、1本塁打、6打点を記録した。オフの10月11日に40人枠を外れ、AAA級ツーソンへ降格した[6]。 2005年はAAA級ツーソンでプレーし、47試合に出場して打率.216、2本塁打、14打点を記録した。オフの10月28日にFAとなった。 アストロズ傘下・独立リーグ時代2006年1月9日に古巣のアストロズとマイナー契約を結んだ[7]。この年はAAA級ラウンドロック・エクスプレス[8]でプレーし、99試合に出場して打率.259、12本塁打、44打点、1盗塁を記録した。オフの11月1日にFAとなった。 2007年は独立リーグであるアトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツに加入。93試合に出場して打率.261、13本塁打、43打点を記録した。この年限りで現役を引退した。 現役引退後2008年にダイヤモンドバックス傘下でパイオニアリーグのルーキー級ミズーラ・オスプレイの打撃コーチに就任。オフの12月3日にA+級バイセイリア・ローハイドの打撃コーチへ異動した[9]。 2010年12月3日にAA級モービル・ベイベアーズの打撃コーチへ異動した[10]。 2011年12月2日にクリーブランド・インディアンス・マイナー組織の打撃コーディネイターに就任[11]。3年間務めた。 2014年11月4日にアストロズの打撃コーチ補佐に就任した[12]。 2015年11月16日、2016年シーズンよりパドレスの打撃コーチに就任する事が発表された[13][14]。2017年9月1日に解任された[15]。 2018年から2年間はサンフランシスコ・ジャイアンツの育成副部長を務めた。2020年シーズンから2022年までシンシナティ・レッズの打撃コーチを務めた[16]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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