アンドリュー・マーチン
アンドリュー・ジェームス・ロバート・パトリック・マーチン(Andrew James Robert Patrick Martin、1975年3月17日 - 2009年3月13日)は、カナダのプロレスラー。オンタリオ州トロント出身。テスト(Test)のリングネームでの活動で知られる。 最終所属はTNA。 来歴1997年にプロレスデビュー。デビュー後まもなくWWF(現WWE)と契約した。WWFへの初登場は、モトリー・クルーがWWFでバンド演奏を行った際のボディーガード役である。1998年、ビンス・マクマホンのボディーガード役で、テストのリングネームでレスラーとしてWWF再登場を果たす。 ビンス率いるコーポレーションの一員として活動した後、1999年にはビンスの実の娘のステファニー・マクマホンの恋人役として活動する。RAWの番組にて、ステファニーとアングル上の結婚を予定していたがトリプルHにステファニーを奪われるストーリーを演じた。 2001年にはアルバート、トリッシュ・ストラタスとタッグチームT&Aを結成して活動。2001年後半にはWCW/ECWとWWFの団体対抗戦ストーリーが始まり、WWF以外に所属した過去がない選手であれば殆どベビーフェイスで固まる中、WCW&ECW連合軍であるアライアンスに加入した(テスト自身には独立時代の両団体に所属した経歴はない)。 2002年には、クリスチャン、ランス・ストーム率いる嫌米軍に加入しヒールとして活動した。同年10月からは、当時実生活においても恋人関係にあったステイシー・キーブラーが番組上でも恋人兼マネージャーとなり、共に行動するようになった。ステイシーとは2003年のロイヤルランブルまで共に行動したが、その後もステイシーとのストーリーが組まれた。その後、嫌米軍に所属していた過去がありながら、嫌米でフランス至上主義タッグのラ・レジスタンスとの抗争が始まり、同じくレジスタンスと敵対していたスコット・スタイナーと利害一致する。テスト自身は乗り気ではなかったが、戦力強化を望んだステイシーの希望によりスタイナーとのタッグチームを結成した。だがこの頃からテストは恋人であるステイシーがいるのに別の女性(トリー・ウィルソン)に求愛し始める、いわば女たらしギミックへの路線変更となる。愛情を失ったのかステイシーを盾にしたり都合の良い道具として扱いだし、そこにスタイナーが介入した事でスタイナーとテストに遺恨が生まれ、ステイシーを巡って争う古典的ストーリーが展開された。 2004年に入り、リングでの活動で酷使してきた首の怪我が悪化しWWEを休場。しかし休場中である同年11月1日、治療費などの経費等を渋ったWWEに解雇された。尚、怪我が回復しだい再契約してもいいとエージェントのジョン・ロウリネイティスを通じて申し込まれたが、テストは「結構だ」と断ったとされている。2005年5月にリング復帰。以降はインディ団体を中心に試合を行っていた。 2006年3月22日、WWEより契約が発表された。その後はWWE版ECWに所属し、王座前線の一員として活躍する。パワーファイトでは説得力十分のレスラーではあったが、元々レスリングの展開力が団体内でもあまり高くなかった為、レスリング技術やハードコア(両方あくまでWWEレベル)重視のECWに在籍する事自体、適所とは言えなかった。 2007年2月、ステロイド使用が発覚したためWWEを解雇。同年8月2日のTNAに登場、"ザ・パニッシャー" アンドリュー・マーチンとして、スティング、アビスのフェイス軍に合流する。 同年12月19日、プロレスからの引退を発表。2008年3月のアイルランド遠征で最後の試合を行う予定であった。 2009年2月、引退を撤回しビッグバン・ベイダーがプロデュースする興行に参戦。 同年3月13日、フロリダ州タンパにある自宅で死亡しているのが発見された[1]。死因はオキシコドンのオーバードーズによるものであり、晩年には慢性外傷性脳症(CTE)に苦しんでいたことが明らかにされた。 得意技
獲得タイトル
入場曲
脚注
外部リンク |