イーグルス
イーグルス(英語: Eagles)は、アメリカ合衆国のロック・バンド。デビュー以来、アメリカ西海岸ロサンゼルスを拠点とし、トータルセールスは2億枚を超える[9]。 代表曲には、「テイクイットイージー」、「魔女のささやき」「ジェームス・ディーン」「呪われた夜」「ホテル・カリフォルニア」「言いだせなくて」などがある。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第75位。ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」7位[10]。 バイオグラフィカントリー・ロックの時代イーグルス結成は、1971年にリンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )編成のためにミュージシャンが集められた時期にさかのぼる。これにグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4名が顔をあわせが、ツアーでは4人全員がそろうことはできなかった。後に彼らは独立して、1971年8月にバンドを結成することを思いつき、ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコード(拠点・ロサンゼルス)からイーグルスとしてデビューした。 メンバーのグレン・フライが、当時同じアパートに居住していたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウン[注 1]と共作したデビュー・シングル曲「テイク・イット・イージー」が、1972年にビルボードホット100で12位まで上昇するヒットとなった[11][12]。続く「魔女のささやき(Witchy Woman)」も全米ヒットとなった。彼らは1972年から77年までは、カントリー・ロックのイメージが強かった。 マルチプレイヤーであったレドンが演奏するテレキャスター、バンジョー、スティール・ギター、マンドリンのサウンドが、バンドのイメージを決定付けていた。特に、バンジョーをフィーチャーした「早起き鳥(Earlybird)」などの楽曲は、カントリーとロックを融合させていた。 プロデューサーはグリン・ジョンズで、すでにローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』など、ロックの有名作品にエンジニアとして関わっていた経験を持つベテランだった。だが、レコード会社とグリン・ジョンズは、カントリーの曲をメインにするよう要求した上に、ジョンズは「君たちはロックンロールに向いていない」と発言し、ロックをやりたいメンバーと衝突を繰り返したとされる。 2枚目のアルバム『ならず者』はコンセプト・アルバムで、基本的にはファースト・アルバムと同様のサウンド構成に留まり、バーニー・レドンのカラーが強いカントリー的な楽曲と、ロック的な要素の曲が共存していた。タイトル曲の哀愁を帯びたバラード「ならず者」は、後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズに至るまで、数多くのアーティストたちにカバーされるスタンダード・ナンバーとなっている。1973年には、カントリー曲の「テキーラ・サンライズ」がヒットしている。 2作目のレコーディングとプロモーションにはかなりの労力が注がれたが、セールス的には成功したとは言えなかった。そのため、3枚目の『オン・ザ・ボーダー』においては、よりロック的なアルバムにすべく、2曲を収録したところでプロデューサーがロック志向の強いビル・シムジク に替わった。同アルバムには、「過ぎた事(Already Gone)」と「ジェームス・ディーン」とメンバーが本当にやりたかったロックの2曲が収録されている。また、バーニー・レドンの紹介で、彼の親友でアマチュア時代のバンドメイトであったフロリダ出身のギタリスト、元フロウ(Flow)のドン・フェルダーが収録曲中2曲において参加し、ロック的色彩を強めることとなった。ドン・フェルダーは後にメンバーとして正式加入しており、ツアーではカントリー的な楽曲ではレドン、ロック的な楽曲ではフェルダーがリード・ギターを主に担った。 1975年、大ヒット・アルバム『呪われた夜』を発表。ファンキー・ディスコ調の「呪われた夜」をはじめとし、グラミー賞、ベストポップボーカル賞を獲得したカントリー曲「いつわりの瞳」、ランディ・マイズナーがボーカルをとる「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と3曲のヒットを生んだ。カントリーの楽曲も依然見られるものの、全体としてはよりロック色を強め、またタイトル曲ではディスコ、ダンス・ミュージック的要素を盛り込むなど、音楽的な幅はさらに広がった。セールス的にも前作に続き大きな成功を収めている。 しかし、『オン・ザ・ボーダー』のころから続いていたメンバー間の軋轢がこのころから激化していた。デビュー当時には民主的なグループであったが、実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーとグレン・フライの2人の日頃からの高慢な態度にバーニー・レドンは業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なったことで1975年12月に脱退している。 それまでバンドの音楽的支柱のひとつであったレドンに代わるギタリストを探すのは難航したが、その間に初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』をリリースした。このアルバムは全米だけでも3,800万枚以上の売り上げを記録し、全米歴代で最も売れたアルバムとして君臨し、プラチナ・ディスク認定第1号ともなった記念碑的作品となるなど、バンドの確固たる地位を築いた。 レドンの後任には、元ジェイムズ・ギャングのメンバーであったジョー・ウォルシュを迎えた。ウォルシュの加入には反対するメンバーもいたが、音楽的にはよりロック色を強める結果となった。1976年には、初来日公演を果たしている。 1976年、彼らの代表作となる『ホテル・カリフォルニア』を発表。当時のロック界や都市社会の矛盾を揶揄したかのような歌詞と13本ものギターを重ねたサウンド・ワークとレゲエのリズムを部分的に取り入れた大ヒット曲「ホテル・カリフォルニア」は実はドン・フェルダーの曲にヘンリーが歌詞をつけたものである。ウェストコースト・ロックの凋落を皮肉るように、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と、彼が飽きられていく様を唱った「ニュー・キッド・イン・タウン」は、ホール&オーツをモデルにしたとも言われている。エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実は虚勢をはっており、内面に苦悩を持つことをにじませた「駆け足の人生」などの収録によりバンドとしての頂点を迎え、全世界的な大セールスを記録し、バンドを押しも押されもせぬ存在となっていった。 しかし、メンバー間の軋轢はさらに激しさを増し、ドン・ヘンリーとグレン・フライの高慢な態度の矛先はランディ・マイズナーに向けられるようになっていた。マイズナーは以前に比べて膨大になったツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、1977年のコンサート・ツアー中に脱退。マイズナーの後継として、元ポコのティモシー・B・シュミットが加入した。 コンサート・ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かる。当初は2枚組で1978年にリリース予定だったが、レコーディングに難航し、1枚組に縮小の上1979年まで掛かった。そしてリリースされた『ロング・ラン』においては、ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。『ロング・ラン』発売に合わせてコンサート・ツアーを行い、1979年には2度目の来日公演を果たす。「ファンキー・ニューイヤー」はファンク・ロックの楽曲だった。この時期には「ハートエイク・トゥナイト」「ロング・ラン」「言い出せなくて」「二人だけのクリスマス」などがヒットしている。 解散、再結成相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。 バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、各自のソロ・アルバムを発表したり、繋がりの深いウエストコースト系のアーティストを中心にレコーディングへのゲスト参加などを行っている。グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞し、ソロとしても成功を収めた。 1994年に、第1期最終メンバーによって再結成。4曲の新曲とライブ収録曲を併収した変則アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し、以後世界規模でのツアーを繰り返し展開。この1994年以降を、ここではバンド活動の第2期とする。2004年から2005年にかけては、「Farewell I Tour」(第一回さよならツアー)と題されたツアーが行われたが、「さよなら」というのはジョークであり、その後も米国内外で公演が行われている。このツアーでも相変わらずの高い人気ぶりを見せつけ、各地のコンサートは大成功に終わり、収益面でも年間ランキングに顔を出すほどであった。 1995年に16年振り3度目の来日公演を東京と横浜、兵庫、福岡で行ない成功を収めた。2004年には5大ドームと横浜アリーナにおいて、9年振り4度目の公演が行われた。 1998年に、ママス&パパスやサンタナなどと共にロックの殿堂入りを果たした。 2000年に、ドン・フェルダーが「バンドに対して貢献していない」という理由によって、突然解雇される。彼はこれを不服として、解雇取り下げを求める訴訟をバンド側に対して行う。 2007年10月31日に、久々の新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』(19曲+ボーナストラック1曲入り、2枚組)を発売した。この作品は、13年振りとなるスタジオ・アルバムで、新曲のみで構成されたものとしては『ロング・ラン』以来であり、実に28年ぶりの作品となる。なお、前日の10月30日には、アメリカ国内においてウォルマートなどを介した先行リリースが実施された。全世界で爆発的なセールスを記録し、衰えぬ人気を示した。 2011年3月1日から6日にかけて、実に7年ぶりとなる5度目の来日ツアーを東名阪ドームで実施した。 2016年1月18日、創設メンバーのグレン・フライが死去。3月10日、ドン・ヘンリーが解散を表明した[13]。 2017年、グレン・フライの息子ディーコン・フライ、さらにカントリーミュージシャンのヴィンス・ギルがゲストとして加わり、ライブ活動を再開[14]。 2018年、北米ツアーを予定[15]。 2022年、ディーコン・フライが「自分自身の道を切り開くときが来た」として脱退を表明[16]。 70年代を代表するバンドであり、ヒット曲を多数発表しているが、どの曲も美しいコーラスワークを聴かせる。デビュー前、グレン・フライは全員がボーカルを採れるバンドを目指していたが、ファーストアルバムの「イーグルス・ファースト」では、デビュー時のオリジナルメンバーであるグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4人全員がリードボーカルを採り、コーラスワークもレベルの高いものとなった。その後、メンバーチェンジもあり、ロック色の強いバンドになっていったが、コーラスワークは維持され続けた。 ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュというテクニックの高いギタリストが加わってからは演奏能力も上がり、ライヴでもクオリティの高い演奏をみせていた。 ビートルズのレノン=マッカートニーのように、ヘンリー=フライのコンビでヒット曲を連発していったが、レノン=マッカートニーは一方がほぼ完成させた楽曲に他方がアレンジなどの補完を行う関係だったのに対し、ヘンリー=フライのコンビは、主にヘンリーが作詞、フライが作曲を担っていた。 同年代に活躍したクイーンやレッド・ツェッペリンなどと比べると実質的な活動期間が短く、リリース作品そのものが非常に少ないが、全米レコード協会(RIAA)の認定でアルバム総売上枚数が1億枚を超えているのは、イーグルスとビートルズ、エルヴィス・プレスリー、ガース・ブルックス、レッド・ツェッペリンの5組だけである。そういう面からも、イーグルスの(特にアメリカにおける)人気ぶりが窺える。 歴代メンバー現在のメンバードン・ヘンリー(Don Henley) ジョー・ウォルシュ(Joe Walsh) ティモシー・B・シュミット(Timothy B. Schmit) ヴィンス・ギル(Vince Gill) ディーコン・フライ(Deacon Frey) 過去のメンバーバーニー・レドン(Bernie Leadon) ランディ・マイズナー(Randy Meisner) ドン・フェルダー(Don Felder) グレン・フライ(Glenn Frey) 主なサポート・ミュージシャンスチュアート・スミス(Steuart Smith)
スコット・クレイゴ(Scott Crago)
ウィル・ホリス(Will Hollis)
マイケル・トンプソン(Michael Thompson)
グレッグ・スミス(Greg Smith)
ビリー・アームストロング(Billy Armstrong)
アル・ガース(Al Garth)
クリス・モステール(Chris Mostert)
タイムラインディスコグラフィ→詳細は「イーグルスの作品」を参照
※順位は全てビルボード誌による。シングルの順位も同様。 オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
コンピレーション・アルバム
シングル
映像作品
コンサートツアー
来日公演
脚注注釈
出典
外部リンクInformation related to イーグルス |