カレル・アブラハム
カレル・アブラハム ( Karel Abraham, 1990年1月2日 - ) は、チェコ、ブルノ出身のオートバイレーサー。 経歴キャリア初期6歳から11歳のときまではアルペンスキー競技に参加していたが、その後ロードレースに転向。2003年にはチェコ国内のロードレース選手権125ccジュニアBクラスでシリーズ3位に入り、「タレント・オブ・ザ・イヤー」賞を受賞した。翌2004年はチェコ、ドイツ、そしてヨーロッパロードレース選手権に参戦した[1]。 125ccクラス (2005-2006)2005年にはチーム・センプルッチよりダリオ・ギウセペッティをチームメイトにロードレース世界選手権125ccクラスにデビューを果たしたが、ノーポイントに終わった。2006年には現在も所属する、父カレル・アブラハム・シニアがオーナー兼チームマネージャーを務める「カルディオン・ABモトレーシング」に移籍。2度ポイント圏内での完走を果たしシリーズランキング24位を記録した。なおカルディオンはチェコの医療機器メーカーであり、ブルノ・サーキットで開催されるチェコグランプリの冠スポンサーとなっている[2]。富豪であるアブラハム・シニアはブルノ・サーキットを所有している[3]。 250ccクラス (2007-2009)2007年シーズンは250ccクラスにステップアップを果たした。クラス1年目は2度10位入賞したのがベストリザルトとなり、シリーズ16位を記録した。翌2008年は2度の7位を記録し、同じくシリーズ16位となった。 250ccクラス最後となった2009年シーズンは、第14戦オーストラリアGPと最終戦バレンシアGPでベストリザルトとなる6位入賞を記録、74ポイントを獲得しシリーズ14位を記録した。 Moto2クラス (2010)グランプリ参戦6年目となる2010年は、250ccクラス後継のMoto2クラスに参戦。当初チームはRSV製のシャシーを使用していたが、第3戦フランスGPからはFTR製に変更[4]、第7戦カタルニアGPでは4位に入賞した。第14戦日本GPではアレックス・デ・アンジェリスとの熾烈なバトルを制して初の3位表彰台を獲得[5]、そして最終戦バレンシアGPでトニ・エリアス、フリアン・シモン、アンドレア・イアンノーネらとの激戦を展開、ファイナルラップの混乱の隙を突いて初優勝を飾った[6]。 MotoGPクラス2011地元チェコGP開催中の2010年8月14日、アブラハムは翌2011年からチームと共にMotoGPクラスにステップアップすることが発表された[7]。この時点では表彰台の経験すらなかったアブラハムの最高峰クラス参戦に対し、ケーシー・ストーナーは「金でシートを買った」ことを非難するコメントを発した[3]。アブラハムの父で、同チームの代表を務めるカレル・アブラハム・シニアは、チェコの医療機器販売会社「カルディオン」と、チェコGP開催で知られるブルノサーキットを所有する大富豪。同チームは息子をWGP(ロードレース世界選手権)で走らせるために作られた。 しかしドゥカティ・デスモセディチGP11を駆ったアブラハムは開幕前の合同テストで着実にラップタイムを向上させていき[8]、雨のサバイバルレースとなった第2戦スペインGPでは途中転倒もあったものの7位に入賞した[9]。第6戦イギリスGPの予選ではワークスのバレンティーノ・ロッシらを差し置いてドゥカティ勢トップとなる6番グリッドを獲得してみせた[10]。 その後もポイントを重ねて、カル・クラッチローとルーキー・オブ・ザ・イヤーの座を巡ってランキング争いを展開した。1ポイントのビハインドで迎えた最終戦バレンシアGPでは直接5位争いの激しいバトルを展開したがファイナルラップに転倒[11]、年間ランキングではクラッチローから6ポイント差の14位となった。 20122012年もアブラハムは父のチームに残留、1000ccのデスモセディチGP12を駆ってクラス2年目のシーズンを迎える[12]。 2013過去2年ドゥカティより出場したが、2013年シーズンからプロトタイプのMotoGPマシンは1メーカー4台という枠組みができたため、戦闘力の劣るCRTマシンの「ARTアプリリア」で出場することになった。 ロードレース世界選手権 戦績
脚注
外部リンク |