ケル・キャラザース
ケル・キャラザース(Kelvin "Kel" Carruthers, 1938年1月3日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の元オートバイレーサー。1969年のロードレース世界選手権250ccクラスチャンピオンである[1]。現役引退後はメカニック、チーム・マネージャーとしても成功を収めた。 経歴オートバイショップを営む両親のもとに生れたキャラザースは、幼い頃からオートバイに慣れ親しんで育った[2]。 1960年代前半に125cc、250cc、350cc、500ccの各クラスのオーストラリア国内チャンピオンになった後、家族と共にヨーロッパに渡り、アエルマッキのファクトリー・チームからロードレース世界選手権に参戦を開始した[2]。 1969年、ベネリのファクトリー・チームに移籍したキャラザースは、ケント・アンダーソン、サンチャゴ・ヘレロとの熾烈なタイトル争いを制し、250ccクラスのワールドタイトルを獲得した[1][2]。 1970年のシーズン終了後、キャラザースは活動の場をアメリカに移す。ケニー・ロバーツという若いアメリカ人ライダーを育てて欲しいという、ヤマハからのオファーに応えてのことだった[2]。1973年には現役ライダーとしては引退し、USヤマハチームでロバーツのチーフメカニックとなった。 キャラザースの指導を得てロバーツは1973年、1974年と2年連続でAMAグランドナショナルチャンピオンとなった。この時はダートトラックだけはハーレーダビッドソンのマシンの方が速かったのだが、ヤマハはハーレーと争う道を選ばず、やがてロードレース世界選手権を戦うためにロバーツとキャラザースをヨーロッパに送り込んだ[2]。そしてロバーツは1978年から3年連続で500ccクラスワールドタイトルを獲得したのである。 1978年のロバーツはコース習熟のために250ccクラスにもエントリーしていたが、この時乗っていた市販マシンTZ250にはフレームをはじめ随所にキャラザースの手が加えられていた。このスペシャルTZはヤマハの開発ライダーの評価も高く、次期モデルのフレームの参考にされた[3]。 ロバーツの引退後は、エディ・ローソンの500ccタイトル獲得をサポートした。 1995年までいくつかのグランプリチームを渡り歩いたキャラザースは、1996年から水上バイクレースのシードゥー・ファクトリーチームに加わり、いくつかの国内タイトルや世界タイトルの獲得に貢献した[2]。1998年にはモーターサイクルレースの世界に戻り、モトクロスレースでヤマハのサテライトチームを運営した[2]。 1985年にオーストラリア・スポーツ殿堂入り[4]、1999年にはAMAモーターサイクル殿堂入りを果たした[2]。 ロードレース世界選手権での戦績
脚注
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