スコット・スカイルズ
スコット・アレン・スカイルズ(Scott Allen Skiles, 1964年3月5日 - )はアメリカ合衆国インディアナ州ラポルテ出身の元バスケットボール選手で、指導者。NBAにおける1試合最多アシスト記録(30)の保持者。 経歴ミシガン州立大学でプレイした後、1986年のNBAドラフト 1巡目22位でミルウォーキー・バックスに指名され、NBA入り。 ルーキーシーズンは、わずか13試合の出場で、平均3.8得点、3.5アシストにとどまった。 翌シーズンからインディアナ・ペイサーズに移り、1987-88シーズンは先発2試合を含む50試合に出場し、平均4.4得点、3.5アシストをあげた。1988-89シーズンは、先発13試合を含む80試合に出場し、平均6.8得点、4.9アシストをあげたが、1試合あたりの出場時間は20分未満にとどまった。 オーランド・マジック1989年、エクスパンションドラフトで、新加入のオーランド・マジックに指名されて移籍した。移籍1年目は控えのポイントガードとして70試合に出場し、平均20.9分で、平均7.7得点、4.8アシストをあげた。1990-1991シーズンに先発の座を確保し、79試合中66試合で先発し、平均34.4分の出場で、17.2得点、8.4アシストをあげた。この年、MIPに選ばれた。1990年12月30日にオーランド・アリーナで行われたデンバー・ナゲッツ戦でNBA記録となる30アシストを記録した。それまでのNBA記録はケビン・ポーターが記録した29アシストであった。この記録はその後破られておらず、彼以降、1試合で最も多いアシスト数は、ラジョン・ロンドが2010年に記録した24アシストとなっている[1]。 1991-92シーズンは75試合に平均31.5分出場し、14.1得点、7.3アシストと個人成績を落とした。1992-93シーズンは78試合に平均39.6分出場し、平均15.4得点、自己ベストの9.4アシストをあげた。 1993-94シーズンは全82試合に出場したが、先発は46試合にとどまり、プレータイムも短くなり、平均9.9得点、6.1アシストに終わった。シーズン終了後、ワシントン・ブレッツに放出された。アンファニー・ハーダウェイの役割を増やすためのトレードであったと見られているが、元チームメートのアンソニー・ブーイによれば、このトレードは失敗であり、スカイルズが在籍していれば、1995年のNBAファイナルでヒューストン・ロケッツに敗れることはなかったという[1](マジックはロケッツに0-4のスイープで敗れた)。 マジック退団後1994-95シーズン、62試合に平均33.5分出場し、平均13.0得点、7.3アシストをあげた。1995-96シーズンは、フィラデルフィア・セブンティシクサーズでわずか10試合の出場にとどまった。 1996年に肩を負傷したスカイルズは、ギリシャA1バスケットボールリーグのPAOKテッサロニキと契約を結んだ。NBAから来たスカイルズは期待されたが、シーズン中盤に怪我やフランス人のミシェル・ゴメスコーチとのトラブルに苦しんだ。ゴメスコーチが解任された後、スカイルズはコーチを兼任し、チームは3人の主力選手を怪我で欠きながら3位となり、翌年のユーロリーグ予選への出場権を確保した。 サンズコーチ1997-1998シーズン、フェニックス・サンズのアシスタントコーチに就任、1999-2000シーズンの開幕から20試合が経過した後、ダニー・エインジに代わってヘッドコーチに就任した。この年チームは53勝29敗、ウェスタン・カンファレンス5位でプレーオフに進出、ディフェンディングチャンピオンのサンアントニオ・スパーズとプレーオフ1回戦で対戦し、3勝1敗で破った[2]。 2001-2002シーズン、開幕から51試合で25勝26敗となったところで解任された[3]。 サンズのヘッドコーチとして3シーズンでプレーオフに2度出場、勝率.595をマークした。 ブルズコーチ2年間の充電期間を経て、2003年にシカゴ・ブルズのヘッドコーチに就任、低迷していたチームのディフェンスを改善させた。ディフェンスは相手フィールドゴール成功率を42.2%(NBAトップ)に抑えた。また26試合連続で失点を100点未満に抑えるチーム記録も作った。2005年1月には、NBAトップの13勝3敗をあげて、イースタン・カンファレンスの月間最優秀コーチに選ばれた。 2006年は41勝41敗でプレーオフにイースタン7位で出場、イースタン2位のマイアミ・ヒートに2勝4敗で敗れた。2006-07シーズンは49勝33敗でプレーオフに進出すると、1回戦でマイアミ・ヒートを破り、2回戦でイースタン1位のデトロイト・ピストンズと対戦、2勝4敗で敗れた。 2007-08シーズン、ブルズは高い期待を持たれたが、開幕から25試合で9勝16敗、セントラル・ディビジョン最下位となり、2007年12月24日、ジョン・パクソンゼネラルマネージャーより解任された[4]。 バックスコーチ2008年4月21日、ラリー・クリスコービアックの後任として、ミルウォーキー・バックスのヘッドコーチに就任[5]、2008-09シーズンは中心選手のマイケル・レッド、アンドリュー・ボーガットの負傷もあり、34勝48敗でシーズンを終えた。 2009-2010シーズンは、センターのボーガット、ポイントガードのブランドン・ジェニングス、シーズン半ばにトレードで獲得したジョン・サーモンズ、ジェリー・スタックハウスの活躍もあり、多くの識者からイースタン・カンファレンス最下位と予想されていたバックスは、7年ぶりに46勝36敗と勝ち越し、プレーオフに進出した。NBA最優秀コーチ賞はオクラホマシティ・サンダーのスコット・ブルックスに取られて受賞できなかった。 2013年1月8日、開幕から32試合で16勝16敗となった時点で解任された[5]。 マジックコーチ2015年5月29日、オーランド・マジックの12代目のヘッドコーチに就任[6]。2015-16シーズン、3年連続で20勝台に止まっていたマジックを35勝までに引き上げたが、2016年5月12日、突然辞任を表明した[7]。 個人成績
NBAレギュラーシーズン
プレイオフ
ヘッドコーチ実績
その他
脚注
外部リンク
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