タリー・ブランチャード
タリー・ブランチャード(Tully Arthur Blanchard、1954年1月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州サンアントニオ出身[1]。生誕地はカナダのアルバータ州カルガリーとされる場合もある[3]。 タッグの名手であり、ジノ・ヘルナンデスとのダイナミック・デュオ、アーン・アンダーソンとのブレイン・バスターズ などで活躍した[4]。1980年代に一世を風靡したフォー・ホースメンのオリジナル・メンバーとしても知られる[5]。 父親はサンアントニオを本拠地とするサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングのプロモーターだったジョー・ブランチャード。娘のテッサ・ブランチャードもプロレスラーである[3]。 来歴スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディも在籍していたウエスト・テキサス州立大学の出身で、大学時代は彼らと同じくアメリカンフットボール部に所属。当時のチームメイトにはテッド・デビアスやティト・サンタナがいた[1]。1975年のデビュー後、レスラー兼プロモーターの父親ジョー・ブランチャードが運営する地元サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)で活動。1978年2月1日にはトーナメントを征し、新設されたサウスウエストTV王座(後のサウスウエスト・ヘビー級王座)の初代チャンピオンに認定された[6]。 当初はベビーフェイスとして売り出され、ブル・ラモスやデイル・バレンタインと抗争していたが、やがてヒールに転向。ワフー・マクダニエル、テリー・ファンク、ボブ・スウィータンらとサウスウエスト・ヘビー級王座を争い、SCWのフラッグシップ・タイトルである同王座には、1983年までに通算11回戴冠した[6]。タッグでは、1981年よりジノ・ヘルナンデスとダイナミック・デュオ(The Dynamic Duo)を結成。若手の悪党コンビとして頭角を現し、ワフー・マクダニエル&テリー・ファンク、チャボ・ゲレロ&マニー・フェルナンデス、ブルーザー・ブロディ&ディック・スレーターなどのチームを相手に、サウスウエスト・タッグ王座を5回[7]、SCW世界タッグ王座を2回獲得している[8]。 1984年にヘルナンデスとのタッグを解消し、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に転出。同年3月28日にマーク・ヤングブラッドからTV王座を奪取し[9]、リッキー・スティムボートやダスティ・ローデスと抗争を展開した[10][11]。1985年7月21日にはマグナムTAを破ってUSヘビー級王座を獲得[12]、以降もマグナムTAと抗争を繰り広げ、11月28日開催の『スターケード』ではアイ・クイット・マッチで雌雄を決した[13]。 USヘビー級王座戴冠中の1985年、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、アーン・アンダーソンらとフォー・ホースメン(The Four Horsemen)を結成[5]。当時のNWAを象徴するヒール・ユニットの一員として、公私にわたって悪名を轟かす[14]。1986年3月4日にはダスティ・ローデスを破り、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのタイトルだったNWAナショナル・ヘビー級王座を獲得[15]。同王座は8月28日にワフー・マクダニエルに奪取されるも[15]、11月27日には再びダスティ・ローデスを下し、世界タイトルとなったTV王座に返り咲いている[16]。以降、前王者ローデスをはじめ、ディック・マードック、バリー・ウインダム、ジミー・バリアント、ロニー・ガービン、フェイスターンしたオレイ・アンダーソンらの挑戦を退け[17]、翌1987年8月17日にニキタ・コロフに敗れるまで、世界TV王者として長期政権を築いた[16]。 タッグでは、1987年9月29日に盟友アーン・アンダーソンとのコンビでロックンロール・エクスプレスからNWA世界タッグ王座を奪取[18]。その後もバリー・ウインダム&レックス・ルガー、ロード・ウォリアーズ、ミッドナイト・エクスプレス(ボビー・イートン&スタン・レーン)などの強豪チームとタイトルを争った[19]。 1988年9月10日にミッドナイト・エクスプレスにNWA世界タッグ王座を明け渡した後、10月よりアーン・アンダーソンと共にWWFに移籍[20]。WWFではボビー・ヒーナンをマネージャーに、ブレイン・バスターズ(The Brain Busters)のチーム名を与えられ[4]、ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ストライク・フォース(リック・マーテル&ティト・サンタナ)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)などのチームと抗争[21]。1989年7月18日にはアックスとスマッシュのデモリッションからWWF世界タッグ王座を奪取[22][23]、NWAとWWFの2大タッグ・タイトルへの戴冠を果たした[4]。 しかし同年11月、ドラッグ検査に違反してWWFを解雇される[24]。やがてアンダーソンもWWFを離脱してNWA(ジム・クロケット・プロモーションズを買収したWCW)に復帰、"オリジナル" フォー・ホースメン再結成も噂されたがドラッグ問題のためブランチャードの再契約は見送られ[1]、以降はインディー団体を転戦。崩壊寸前の末期AWAにも出場していた[25]。この間、過去の放蕩生活を悔い改めて新生キリスト教徒となり、1990年代初頭にセミリタイアして説教師に転身した[1]。 その後も宣教活動の傍ら単発的にリングに上がり、1994年5月22日に行われたWCWのPPVイベント "Slamboree" では、SCW時代から因縁の浅からぬテリー・ファンクと対戦[26]。1995年にはECWに登場し、1月から3月にかけてシェーン・ダグラスのECW世界ヘビー級王座に連続挑戦した[27]。同年10月29日には藤波辰爾が旗揚げした無我の旗揚げ興行に初来日、メインイベントで藤波と対戦している[28]。 2000年代に入ってからもオールドタイマーによるイベントに時折参戦し、かつてのライバルたちとエキシビション・マッチを行っている。2006年には短期間ながら、WWEでロード・エージェントを任されていたこともあった[2]。 2012年、リック・フレアー、アーン・アンダーソン、バリー・ウインダムおよびマネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂に迎えられた[29]。 得意技
獲得タイトル
脚注
関連項目外部リンク
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