ムーディー・ブルース
ムーディー・ブルース(The Moody Blues)は、イングランド出身のロックバンド。 ロック界においても最古参に位置する、プログレッシブ・ロックの草分け的存在として知られる。音楽にいち早くメロトロンを取り入れ、シンフォニック・ロックの礎を築いた[9]。トータルセールスは7,000万枚以上[10]。 経歴R&B期(1964年 - 1967年)1964年5月、バーミンガムでムーディー・ブルースとして初のコンサートを行う[11]。当時のメンバーはレイ・トーマス、マイク・ピンダー、グレアム・エッジ、デニー・レイン、クリント・ワーウィックの5人。デビュー最初期はR&B系グループとして活動しており、1965年にアルバム『デビュー! (The Magnificent Moodies)』を発表。同年、シングル「ゴー・ナウ」が全英1位・全米10位の大ヒットを記録するが、1966年春にクリント・ワーウィックが脱退し、同年にはリード・ボーカルとギターを担当していたデニー・レインも脱退[11]。レインは後にポール・マッカートニー率いるウイングスに1971年に加入する。 プログレッシブ・ロック期(1967年 - 1974年)メンバー2人の脱退に伴い、バンドはジョン・ロッジとジャスティン・ヘイワードを迎え入れて、メロトロンやシンセサイザーなどの電子楽器を駆使した前衛的な音楽性に変わっていく。1967年発表の2ndアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』では、1960年代の段階でオーケストラとの競演で新しいロックのスタイルを築き上げるなど、プログレッシブ・ロックというジャンルを生み出した草分け的な存在と言える[12]。 その後は、1968年『失われたコードを求めて』、1969年『夢幻』、1970年『クエスチョン・オブ・バランス』[13]、1971年『童夢』といったほとんどのアルバムが英米で大ヒットを記録[14]。ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、EL&P、ジェネシス等と共に1960年から1970年代にかけてのプログレッシブ・ロック・ムーブメントを支えた。かつてジミー・ペイジは「本当にプログレッシブなバンドは、ピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだ」と語っていた。 また、1967年に発売されたシングル「サテンの夜」は、発売当時は全英19位のヒットだったが、1972年にラジオ局から人気に火がつき、全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録し、彼らの代表曲となった。収録されているアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』も後年1972年にアメリカでチャートインし最高位3位迄上昇した。 1972年にアルバム『セヴンス・ソジャーン』を発表してからは、メンバー個人のソロ・アルバム製作や、アーティスト自身のレコード・レーベルでは先駆けとなる「スレッショルド・レコード」(『夢幻』の原題から名称がとられた)の運営などが活動の中心となり、バンド活動が停滞する。この時期はプログレッシブ・ロックの最盛期であり、この頃にほとんど活動を行っていなかった。1974年4月には、アメリカのカリフォルニア州に移住していたマイク・ピンダーが、家族との生活を優先させるためバンドを一度脱退する[15]。 再始動(1978年 - 2001年)1977年、かつて1969年に開催されたロイヤル・アルバート・ホール公演のライブ音源とスタジオ・アウトテイク5曲を収録したアルバム『コート・ライヴ+5』がリリースされ、同アルバムの売り上げが好調だったことから1978年に正式に再始動し[16]、マイク・ピンダーもバンドに復帰した[15]。しかし、再結成第1弾アルバム『新世界の曙』録音途中で、マイク・ピンダーは続くツアー参加に難色を示し、録音途中でアルバム製作から抜け、プロモーションビデオやアルバム用写真撮影にも不参加。それに伴い、長年、6人目のムーディー・ブルースとまで言われたプロデューサーのトニー・クラークも「マイクがいないムーディー・ブルースをプロデュースする意味がない」という理由で抜け、同じく長年録音エンジニアを担当していたデレク・バーナルズが、生オーケストラを使ったアレンジを加え、最終的なアレンジが完成した。こうして難題が続いた『新世界の曙』は、リリースまでこぎつけたが、続くツアーには、オーディションの結果、元イエスのパトリック・モラーツが参加した[17]。 その後、1981年発表のアルバム『ボイジャー - 天海冥』のレコーディングに際し、マイク・ピンダーから「レコーディングにだけは参加したい」との連絡がメンバーに入ったが、バンドは参加を認めず、パトリック・モラーツを正式なメンバーとしてレコーディングを行う。このアルバムは、9年ぶりに全米1位を獲得[18]、復活を印象付けた。「イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』のようなドラム演奏をしたかった」というグレアム・エッジのコメントが残っているが、実際、グレアム・エッジのドラム演奏は、過去のアルバムを通し、もっともダイナミックでパワフルな演奏を残している。 1980年代以降はプログレッシブ・ロックの衰退もあり、ポップな大衆的音楽に変化していった。1986年にはトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎え、ポップ・ナンバー「Your Wildest Dreams」が全米9位を記録し、久々のヒットとなった。 1991年、パトリック・モラーツが自身の音楽活動に専念し、新アルバム制作に支障をきたしていることと、またバンドに対する大きな報酬を要求しているとして、バンドは『キーズ・オブ・ザ・キングダム』の録音に、アシストメンバーとしてクレジットした。それに不服申し立てを行ったパトリック・モラーツとバンドは訴訟となり、結果、バンドは敗訴した。それに伴い、パトリック・モラーツは脱退した[17]。 3人体制(2002年 - 2017年)2002年12月、レイ・トーマスが今後のツアーには参加しない意志を明かし[19]、バンドの正式メンバーはジャスティン・ヘイワード、ジョン・ロッジ、グレアム・エッジの3人となる。 2003年、16thアルバム『December』をリリース。後日ジャスティン・ヘイワードは「これが最後のスタジオ・アルバムになるだろう」と示唆した[20]。その後はライブに専念し、サポートメンバーを集いながら活動を続ける。 2016年、ジョン・ロッジのソロ・アルバムが製作されたが、その中に1曲、マイク・ピンダーとレイ・トーマスが参加している。 2017年、『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』発表から50年を記念して、アルバム全曲を演奏するライブツアーを敢行。ツアーの模様はブルーレイ、DVD、CDとして発売された。 バンドの終焉(2018年 - 現在)2018年1月、『ロックの殿堂』入りを果たしたが、セレモニーを前に創設メンバー レイ・トーマスが死去[21]。開催当日には、旧メンバーのデニー・レイン、マイク・ピンダーも同じステージに立った。 同年、唯一のオリジナルメンバーであるグレアム・エッジが、この年をもって引退。ジャスティン・ヘイワードは「グレアム無しでは考えられない」と、解散宣言のない事実上の活動停止。以降の音楽性については、ジョン・ロッジがソロ活動で引き継いでいる[22]。 そして3年後の2021年、グレアム・エッジが80歳で死去する[23]。さらに2023年にデニー・レイン、2024年にマイク・ピンダーが亡くなり、オリジナルメンバーは全て他界した[24][25]。 メンバー※2021年11月時点 最終ラインナップ
旧メンバー
ディスコグラフィスタジオ・アルバム
ライブ・アルバム/コンピレーション・アルバム
音源の補足2017年、痛んでいて使われなかった『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』のオリジナル・マスターテープを使ったCDを発売。マスターテープ劣化による左右チャネルのよれはあるもの、「Evening」はオリジナルのミックスに戻った。 2018年、『失われたコードを求めて』の50周年記念盤をリリース。これまで存在しなかった5.1chミックスの発表と、50thニューミックスを収録。「The Actor」のイントロが長い。「Voices In The Sky」の冒頭、左チャネルのフルートによる音割れが修正されている。 日本公演関連項目脚注
外部リンク |