一橋徳川家
一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家の分家にあたる、武家・華族だった家。江戸時代中期に御三卿の一家として創設され、単に一橋家とも呼んだ。維新後一橋藩を維新立藩し、廃藩を経て伯爵家に列せられた。 歴史一橋徳川家と御三卿の成り立ち江戸幕府8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とする[1]。宗尹は享保20年(1735年)の元服の際に非嫡流ながら徳川を姓とすることを許され[2]、元文2年(1737年)には合力米2万俵を与えられ、同5年(1740年)に江戸城一橋門内に屋敷を拝領するとともに合力米1万俵を加増されて都合3万俵となった[1]。その屋敷は一橋屋形と称されたため「一橋家」と呼ばれるようになった[2]。 さらに延享3年(1746年)には兄(吉宗の次男)の田安徳川家初代当主宗武とともに、播磨国・和泉国・甲斐国・武蔵国・下総国・下野国のうちに10万石の賄料を給された[1]。 一橋徳川家は田安徳川家、清水徳川家(9代将軍家重の次男重好を祖とする)とともに「三卿」もしくは「御三卿」と呼ばれた。御三卿は江戸幕府において御三家に準ずる家格を与えられ、御三家とともに将軍家の血統保持の役目を担った[2]。ただし、御三家のような分家独立した大名家ではなく、江戸城中に住んで「将軍の家族」としての扱いを受けた[3]。 領地も幕府領から名目的に割かれているだけで支配のための藩を持たず、10万石というのはあくまで賄料である[3]。家老以下の主要家臣も幕臣から派遣されており、彼らは老中支配に属する[2][4]。御三卿が独自に抱える「抱入」家臣もあったが、上級役職へ登るのは困難で、幕臣となるのも極めて例外的であった[5][注 1]。 2代治済は、四男家斉を11代将軍にしたため、幕政の実権を掌握し、田沼意次一派の粛清と松平定信の老中登用を推し進めた[1]。江戸期の一橋家当主の極位極官は従三位・権中納言だったが、治済のみ将軍の実父であったことで、それをはるかに超える従一位・准大臣という異例の高位に登っており、死後には太政大臣が追贈されている[6]。 幕末期の一橋家、一橋藩の立藩と廃藩弘化4年(1847年)、水戸徳川家から、部屋住みながら若年の当主慶篤に次ぐ控えの立場であった徳川慶喜が一橋家へ養子に入った。それまで御三卿の家の子や当主自身が御三家を相続する例はあったが、その逆は異例であった[6][注 2]。13代将軍家定の後継をめぐる将軍継嗣問題が持ち上がると、慶喜を推す勢力(一橋派)と紀州藩主徳川慶福を推す勢力(南紀派)が対立するが、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると慶福が後継に決定し、のちに慶福は家茂と改名して14代将軍になった。 その後も直弼は慶喜と対立し、安政の大獄の際には隠居謹慎が慶喜に命じられた。文久2年(1862年)に慶喜が謹慎を解かれ復帰するまでの間、一橋家は当主不在になっていた[6]。同年、慶喜は将軍後見職に任じられ、以後は一橋家の家臣たちも率いて幕政に直接関わっていく。また、元治元年(1864年)には将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督に任じられ、京都に滞在して京都守護職の会津藩主松平容保、その実弟で京都所司代の桑名藩主松平定敬と提携し、江戸の幕閣から半ば独立した政治勢力(一会桑政権)を形成していく。 慶応2年(1866年)に家茂が死去し、慶喜が将軍家を相続すると、同じく水戸系の血筋で、御連枝(分家)高須松平家当主を経て尾張徳川家の当主を一時務めるも隠居の身となっていた徳川茂栄(尾張時代の名は茂徳)[注 3]が一橋家を相続したが、間もなく明治維新を迎えた[6]。慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いの結果、畿内以西における徳川幕府の支配体制は崩壊し、新政府の支配体制が確立された。そのため、大半が畿内以西にあった一橋家の領地も安芸国広島藩主浅野家など最寄りの官軍領主たちの預かり地となった[7]。領地を失った茂栄は、同年3月と閏4月に駿府の東征大総督府へ赴き、慶喜や徳川一門に寛大な処分が下されるよう嘆願を繰り返した[8]。その結果、江戸城無血開城後の同年5月、茂栄に徳川宗家から独立して10万石の一橋藩を維新立藩し、その藩主となることが許された。これを受けて茂栄は、翌6月に一橋家の領地と陣屋の返還を政府に願い出、7月にも返還が認められた[7]。 明治2年(1869年)3月に一橋藩は他藩と同様に版籍奉還を行ったが、この際に政府から以後当主は東京に住むこと、家禄として従来の年貢・雑税の一割を与えること(3805石[9])、家臣は家令・家扶・家従・召使など相当数だけを残し、他は地方官属とすることを命じられた。藩の現米(租税収入)の1割をもって藩主の個人財産たる家禄とするのは全ての藩に共通だったが、他の藩主が版籍奉還後も知藩事に任命されたのに対し、田安・一橋両家にはその沙汰は下らなかった[7]。 9月に茂栄は知藩事任命を政府に願い出、また翌年3月まで一橋家家臣たちが連名で茂栄への知藩事任命の請願を繰り返しているが、結局茂栄への任命はなく、明治3年(1870年)1月には各地に点在していた一橋藩領がそれぞれの近隣の県に合併され、他藩に先駆けて廃藩となった[7]。 伯爵家時代と華族制度廃止後茂栄は、知藩事としては認められなかったが、華族の地位は他の大名と同様認められた[7]。明治3年(1870年)閏10月に家禄3805石を支給される。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は14万3641円60銭6厘(華族受給者中47位)[10]。明治前期の茂栄の本邸は、東京府本所区本所錦糸町にあった[11]。 茂栄は明治17年(1884年)3月に死去し、嫡男の達道が家督を相続した[12]。同年7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制となり、叙爵内規において御三卿の各家当主は伯爵と定められたため、達道も伯爵に列せられた[13]。 達道が昭和9年(1934年)に隠居した後、水戸家の徳川篤敬侯爵の次男宗敬が養子として爵位と家督を相続した。宗敬の代の昭和前期に、一橋徳川伯爵家の邸宅は東京市小石川区林町にあった[14]。昭和5年には同地に建築家堀口捨己の設計から成る昭和モダン的な邸宅を建設している[15]。 宗敬は貴族院の伯爵議員に当選して務め[14]、戦後に最後の貴族院副議長に就任している。貴族院が廃止された後も参議院議員に当選して議席を維持し、サンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。その後、伊勢神宮の大宮司を務めた[12]。 また、宗敬が後年に茨城県へ寄贈した家伝の資料や文化財など約6,000件は、茨城県立歴史館内の一橋徳川家記念室(1987年(昭和62年)10月開館)にて展示公開されている[16]。 歴代当主と後嗣たち江戸時代
系譜凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク |