三相(さんそう、巴: tilakkhaṇa、梵: trilakṣaṇa)とは、主に上座部仏教で用いられる概念であり、全ての存在および物事は、無常、 苦[1]、 無我[2][3][4]であるという仏教の根本思想を表す。三相は『ダンマパダ』の277,278,279節などに記載されている[5]。
- 無常(anicca アニッチャ)- 諸行無常
- 苦(dukkha ドゥッカ)- 一切皆苦, 一切行苦
- 無我(anatta アナッタ) - 諸法無我, 諸法非我
人間は三相について妄想を抱いており、この妄想によって人は苦しむ(無明)。この妄想を除去することで苦しみを終えることができ、清浄への(visuddhiyā)道である。これが四諦と八正道で語られる仏教の核心部である。
ゴータマ・ブッダの教説において、縁起という現象の根源的な3つの性質を表現したもの。上座部仏教のヴィパッサナー瞑想では、この三相を繰り返し観ずる(経験する)ことがその本質的な内容となっている。
抜粋
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
「一切の形成されたものは苦である」(一切行苦)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
「一切の事物は無我である」(諸法無我)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
— パーリ仏典, ダンマパダ,20 Maggavaggo, Sri Lanka Tripitaka Project
無常を常と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
苦を楽とと捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
無我を我と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
不浄を浄と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
無常なものに常をいだき、苦であるものに楽をいだき、無我なものに我をいだき、不浄なものに浄をいだく。
衆生らは、邪見によって心乱され狂わせられる、マーラにとらわられた安楽なき人々である。
— パーリ仏典, 赤馬品, 顛倒経, Sri Lanka Tripitaka Project
脚注
注釈
出典
参考文献
- 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』新潮社、2015年5月。
- 藤本晃『悟りの4つのステージ』サンガ、2015年。
- ウ・ジョーティカ『自由への旅』魚川祐司(訳)、新潮社、2016年。
関連項目