不良番長『不良番長』(ふりょうばんちょう)は、1968年から1972年までシリーズ化された日本映画[1][2]。主演:梅宮辰夫[2][3]、製作:東映東京撮影所、配給:東映。全16作品が製作された東映の最長シリーズ作である[1][4][注 1]。 解説当時の東映常務取締役兼企画製作本部長・岡田茂(のち、同社社長)が、梅宮辰夫を売り出すため、マーロン・ブランドの主演映画『乱暴者』(1953年)や、ロジャー・コーマン監督・ピーター・フォンダ主演でアメリカの暴走族(モーターサイクルギャング)ヘルズ・エンジェルスの生態を描いた『ワイルド・エンジェル』(1966年)などをヒントに、日本でもオートバイを駆使した不良映画を製作しようと企画した[1][2][3][5][6][7][8][9][10]。『不良番長』という題名も岡田の命名[4][9][11][12]。吉田達プロデューサーも野田幸男もインテリで[1]、当時は「スゴイ題名だな」と抵抗があったという[1]。1968年夏[11]、梅宮は吉田達と一緒に岡田に呼び出され、「今度『不良番長』ってやつ、俺が考えたから。お前にピッタリの役だから。いや、お前にしかできない役と言った方がいい。吉田に企画もお前も預けたから、頑張ってやってくれと言われた」などと話している[11][13][14]。 東映ニューフェース(1958年)としてデビューしながら、今ひとつ伸び悩んでいた梅宮は、本シリーズで新しい不良イメージを確立した[15]。シリーズ作品のほとんどが、当時全盛期にあった東映の任侠映画と併映されたが[16]、それらとは異なり、シリーズ初期は勧善懲悪ものの要素は薄く、主人公の神坂弘及び彼が率いる不良グループ「カポネ団」の面々の、己の快楽や欲望を満たすためにレイプ、詐欺、恐喝、売春業の斡旋、ブルーフィルム製作等の悪事に手を染めるといった性格描写が、社会的アウトローのヤクザでありながら「正義感に篤く己の美学を貫くために悪事を許さない」勧善懲悪の形式に基づいた他のヤクザ映画の主人公たちと一線を画していた。 そのため、シリーズ初期においてはクライマックスの敵ヤクザとの抗争も、「堅気の人間を守る」、「仁義を貫く」、「恩人の仇討ち」、「理不尽な仕打ちに対する反抗」といった従来の作品に見られるヒロイズムに徹した観念は薄く、「仲間の敵討ち」もしくは「敵ヤクザとの利権争い」という側面を強調している。アクションは主人公が現代でいう暴走族に該当する設定から、バイクアクションを基本としており、アクション面でも他の作品との差別化を図っていた。 しかしながら、シリーズも回を追う毎に、当初の殺伐とした作風から、随所に下ネタやギャグ、社会風刺パロディを盛り込んだ方向性へと転換し[2][17]、主人公たちの性格も当初の反社会的なダークヒーローとしての側面は薄まり、他のヤクザ映画作品の主人公同様の人情路線に、社会の底辺を生き抜くしたたかさや滑稽な側面を加味した性格へと変遷していき、結果的に作品全体のカラーが序盤と終盤では大幅に変更されたものとなった。シリーズ終盤では「四十になっても番長だ!」という名ゼリフが吐かれた[2]。 全体的なカラーの変更に最も影響を与えたのは『送り狼』から参加した山城新伍で[2][6][14][18][19]、このシリーズを通して披露された並外れたコメディリリーフぶりは、山城自身のターニングポイントともなった[2][8][17][20]。 梅宮辰夫が1964年の『暗黒街大通り』までの硬派な役から突如、プレイボーイ、女を泣かす役に変身したのは『暗黒街大通り』の後の『悪女』(1964年)からであるが[21]、この方向転換を発案したのも岡田茂である[21]。岡田は普段の梅宮をちゃんと観察していて、梅宮の日常生活に近い役を当てた[3][11][21]。「今度こういう台本でやってくれと言われた時、毎日の俺と同じじゃねえかって。特に抵抗はなかった」[13]、「自分でも俺のために用意された役だ、正に俺にしかできない役だ」と大喜びし、俄然やる気も増して「東映東京は俺一人で背負って立つ という自覚も芽生えた」などと梅宮は話している[11]。「夜の青春シリーズ」「夜の歌謡シリーズ」などを挟んで「不良番長シリーズ」に至った[3][21]。1972年にクラウディア・ヴィクトリアと再婚し、梅宮アンナが産まれ、アンナを溺愛して撮影所でおしめを交換していたら、岡田から「ちょっと来い!」と呼び出され「お前何考えてんだ、プレイボーイの役やる人間が赤ん坊のおしめ換えてるんじゃないよ! 監督が怒ってあいつじゃ撮らないって言ってるぞ」と言われ1本映画が流れたことがあるという[3][21]。 後続作品への影響梅宮自身、「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ」などと話すため[22]、映画の性格を誤解されがちであるが、本シリーズは、不良グループ映画/番長映画/愚連隊映画/ヤンキー映画/暴走族映画/バイカー映画として元祖的作品である[9][15][11][23][24][25][26][27][28][29]。
逸話製作に関して
出演者
撮影・興行に関して音楽など
終了経緯
シリーズ不良番長
不良番長 猪の鹿お蝶1969年1月18日 公開 第2作
不良番長 練鑑ブルース1969年6月14日 公開 第3作
不良番長 送り狼『不良番長 送り狼』 1969年7月31日 公開 第4作
不良番長 どぶ鼠作戦1969年10月15日 公開 第5作
不良番長 王手飛車1970年1月9日 公開 第6作
不良番長 一攫千金1970年4月18日 公開 第7作
不良番長 出たとこ勝負1970年8月1日 公開 第8作
不良番長 暴走バギー団1970年10月29日 公開 第9作
不良番長 口から出まかせ1970年12月30日 公開 第10作
不良番長 やらずぶったくり1971年7月31日 公開 第11作
不良番長 手八丁口八丁1971年9月18日 公開 第12作
不良番長 突撃一番1971年12月29日 公開 第13作
不良番長 のら犬機動隊1972年4月26日 公開 第14作
不良番長 一網打尽1972年9月14日 公開 第15作
不良番長 骨までしゃぶれ1972年12月2日 公開 第16作
極道VS不良番長『極道VS不良番長』 1974年 公開 第17作(不良番長シリーズ)、第11作(極道シリーズ)
音楽
『全極連ブルース』は若山富三郎、それ以外は梅宮辰夫歌唱。要注意歌謡曲指定制度において『番長数え唄』は放送禁止となるAランク、『番長ブルース』は旋律は使用可能なBランク指定を制度が1988年に失効するまで受け続けた[78]。 脚注注釈出典
参考文献
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