国鉄デハ6260形電車デハ6260形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院、鉄道省に在籍した直流用電車である。 概要1909年(明治42年)度に10両が新製されたホデ1形(後のホデ6100形、デハ6250形)に次いで、製造された木製で両運転台式の三等制御電動車で、1911年(明治44年)度および1912年(明治45年)度に鉄道院新橋工場で19両が製造された。 製造時にはホデ6110形(6110 - 6128)と称した。1913年(大正2年)4月22日には、車両形式称号規程の改正にともなって、記号を「ナデ」に改め、さらに、1914年(大正3年)8月29日付けでデハ6260形(6260 - 6278)に改称[注釈 1]されている。 車体は16m級の木製車体で、出入り台は開放式で両端部に設けられているほか、車体中央部にも引戸式の客用扉が増設され、客室と直結されていた。出入り台の中央部に運転台が設けられたが、客用の部分と区分はされていない。一方、前面は半円形に大きく湾曲した5枚固定窓で、出入り台中央部の幅を広くすることで、運転手と乗客が交錯しないよう配慮されている。側面窓は下降式の一段窓となっており、窓配置はV222D222V。屋根は、出入り台部分を含めてモニター屋根とされ、通風器はなかったが、後に水雷形通風器が片側4個設けられた。車体幅は、車両限界の小さい中央線でも共通に使用できるよう、2500mm幅[注釈 2]とされた。 足回りについては、台車は製造時はホデ6100形と同様の板台枠式であったが、後年、釣合梁式の明治43年電車用標準型に交換された。制御装置は最初の10両が直接式、以降は総括制御可能な間接式となった。電動機は、シーメンス・シュケルト製のD-58W/F(70PS)や甲武鉄道引継ぎの二軸車から流用したゼネラル・エレクトリック製(45.5PS)が使用された。集電装置は、トロリーポールがモニター屋根の前後に2本ずつ装備されている。 車内の天井には木板の内張り、床にはリノリウムが張られ、座席は背ずりまでモケットを張り、灯具は二等車並みという仕様であった。 標準化改造本形式は、後に製造された標準型に比べ、特殊な形状であったため妻面の角型化、出入り台側面への折戸の追加(後年引戸化)、中央扉の踏み段撤去などの標準化が行われた。これらの標準化は、1920年(大正9年)10月から1921年(大正10年)5月までの間に実施された。当初は制御器が直接式であったものも、1919年(大正8年)度までに総括制御可能な間接式に交換されている。 新宿電車庫火災、関東大震災による廃車1916年(大正5年)11月24日、新宿電車庫が火災により焼失し、同庫に配属されていた電車20両も焼失した。本形式では、5両(6260, 6265, 6266, 6274, 6276)が被災し、同年11月23日付けで廃車されている。当時輸入に頼らざるをえず貴重品であった電装品については、焼け残ったものはデハ6380形新製の際に再用されている。 また、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、2両(6267, 6268)が失われている。 譲渡残ったものは、1924年(大正13年)度に4両(6261 - 6264)、1925年(大正14年)度に8両(6269 - 6273, 6275, 6277, 6278)が廃車され、目黒蒲田電鉄に譲渡された。ただし、6272と6273の2両は譲渡時に6282, 6281と振り替えられている。 目黒蒲田電鉄に譲渡されたもののうち1925年譲受の7両は駿豆鉄道に、1両は芝浦電気を経て鶴見臨港鉄道に譲渡され、1943年に再国有化後、さらに日立電鉄に譲渡された[注釈 3]。 目黒蒲田電鉄に残った4両は、鋼体化の後、東京急行電鉄デハ3300形となっている。譲渡の状況は次のとおりである。殊に日立電鉄に渡った6273は、1970年代まで現役で使用されるという長命を保った。
脚注注釈
出典参考文献
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