国鉄デハ6285形電車デハ6285形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院、鉄道省に在籍した木造直流用電車である。 概要本形式は、デハ6280形の増備として製造された木製で両運転台式の制御電動車で、1913年(大正2年)から1914年(大正3年)に鉄道院新橋工場で12両が製造された。 本形式は製造時にはナデ6110形(6133 - 6144)と称した。1913年4月以降に落成したため、最初から記号は「ナデ」であった。1914年(大正3年)8月29日付けでデハ6285形(6285 - 6296)に改称[注釈 1]されている。 車体は16m級の木製車体で、出入り台は両端部に設けられているが、幅が狭められ910mmとされ、従来のような折戸ではなく開き戸とされた。また、デハ6280形と同様、車体中央部にも引戸式の客用扉が設置され、客室と直結されていたが、中央扉に圧搾空気で自動的に上下する踏段(ステップ)が設けられている。 運転台と出入り台は本形式から一応仕切りが設けられ、前面は左右に軽い後退角がついた三面折妻となり、前面中央部に貫通扉が設けられている。側面窓は下降式の一段窓となっており、窓配置は1D222D222D1。屋根は、出入り大部分を含めてモニター屋根とされ、製造当初から水雷形通風器が片側4個設けられた。車体幅は、車両限界の小さい中央線でも共通に使用できるよう、2500mm幅[注釈 2]とされた。 台車は1913年度製の6両(6133 - 6138)は試験的に輸入した3種の台車(ブリル27GE-1、同27E、ボールドウィン84-35-A)が2両ずつ装備された。1914年製の6138 - 6144は釣合梁式の明治43年電車標準形であった。 制御装置は総括制御可能な間接式で、電動機は、6137, 6138はゼネラル・エレクトリック製のもの(70PS)、である。集電装置は、トロリーポールがモニター屋根の前後に2本ずつ装備されている。 新宿電車庫火災による廃車1916年(大正5年)11月24日、新宿電車庫が火災により焼失し、同庫に配属されていた電車20両が焼失した。本形式では、4両(6286, 6287, 6291, 6292)が被災し、同年11月23日付けで廃車されている。当時、電装品は輸入に頼らざるを得ず、貴重品であったことから、焼け残った電装品はデハ6380形新製の際に再用されている。 標準化改造標準化改造については、1920年(大正9年)8月から翌年3月にかけて、火災で廃車となった4両を除く8両に対して実施された。この際、前後の客用扉(開き戸)が引戸に改められ、中央扉の自動踏み段も撤去された。妻の三面折妻形状については、後退角がごくわずかであることもあって、折妻のまま存置された。 使用停止・譲渡本形式は8両が中央線・山手線で使用されたが、両線の昇圧に伴い1925年(大正14年)に使用停止され、7両を目黒蒲田電鉄に譲渡(うち3両は目蒲で使用せず、阪神急行電鉄に再譲渡)、1両(6296)は電装解除され、サハ6410形(26414)に編入された。譲渡の状況については、次のとおりである。
1928年10月車両称号規程改正にともなう変更1928年(昭和3年)10月1日に施行された車両称号規程改正により、1両のみ残存していたサハ26414が、サハ6形(6032)に改称されたが、1931年(昭和6年)12月に廃車解体された。 保存1972年(昭和47年)3月、日立電鉄で廃車となったデワ101は、日本国有鉄道に引き取られ、日本の鉄道100年の記念事業として大井工場においてナデ6141に復元された[1][2]。同車は、同年10月14日、鉄道記念物に指定されている[2]。1987年(昭和62年)には東日本旅客鉄道に引き継がれ、同年8月には動態復元[3][4][5][注釈 4]され、引き続き大井工場(東京総合車両センター)に保管されていたが、2007年(平成19年)10月、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、保存展示されている[2]。その後、2017年(平成29年)9月に国の重要文化財に指定された[2]。 脚注注釈
出典
参考文献
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