鉄道省
鉄道省(てつどうしょう、旧字体:鐵道󠄁省)は、かつて日本に存在した、鉄道に関する業務を管轄していた国家行政機関の一つである。国有鉄道(官営鉄道)事業を所管し、地方鉄道および軌道を監督した[1]。運輸省、国土交通省、公共企業体日本国有鉄道およびJRグループの前身に当たる。 日本の鉄道開業以来、さまざまな省庁が鉄道行政を所管してきたが、それらを経て鉄道省は1920年(大正9年)5月15日に設置された[2][3]。 1943年(昭和18年)11月1日に運輸通信省鉄道総局に改組され、1945年(昭和20年)に運輸省鉄道総局が継承したが、1949年(昭和24年)6月1日に鉄道監督行政が運輸省鉄道監督局(国有鉄道部・民営鉄道部)に、国有鉄道事業が公共企業体(公社)の日本国有鉄道にそれぞれ分離された[2]。さらに鉄道行政の所管は1991年(平成3年)7月1日の運輸省内の再編で運輸省鉄道局に移行し、現在は2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編で発足した国土交通省鉄道局が所管している[2]。 英語名称は、省庁としての「鉄道省」を指す場合は"The Ministry of Railways"、鉄道網としての「鉄道省」を指す場合は"Japanese Government Railways"である(名称にImperialを冠するケースもあった)。 前史戦前日本における、鉄道行政の所管省庁の推移は以下の通りである。
鉄道寮・鉄道局日本の鉄道の所管官庁は1870年(明治3年)に設置された民部省鉄道掛が最初である[4]。後に工部省鉄道掛に改組され[5]、翌年の1872年10月14日には、新橋 - 横浜間鉄道開業を迎えた(日本の鉄道開業)[2]。 1877年には工部省鉄道局に改組され[8]、1885年(明治18年)に工部省が廃止されると鉄道局は内閣の直属となった[2][9]。1890年(明治23年)には内務省外局の鉄道庁に改組されたが[2][10]、1892年(明治25年)には逓信省外局に移管され[11]、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった[2][12]。 同時期には、ドイツ帝国の帝国鉄道の会計が陸軍省によって研究され[16]、1897年(明治30年)には逓信省鉄道局は監督行政のみを受け持つことになり、現業部門は逓信省外局の鉄道作業局に分離された。 他方1901年(明治34年)には、外交官だった幣原喜重郎がベルギーの状況を官報に報告した。報告によれば、アンウェルス市街鉄道は馬車鉄道から電気鉄道に切替えて他重要都市へ延長する計画が成立し、民間会社が1945年(昭和20年)までの営業を認可され、また、その契約内容には、学生及び労働者を保護するための低運賃、労働条件(賃金、昇給、休憩時間、保険)、会社は「市と県」に毎年一定額を納付すること、営業開始から15年目以降は国が好条件で事業を買収(国営化)し得ること、また買収額の計算方法が規定されている[17]。 帝国鉄道庁鉄道事業は逓信省外局の鉄道作業局へ全て移管されてからも、鉄道敷設法及び、北海道鉄道敷設法、事業公債条例などによって運営されていたが、1906年(明治39年)に帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し[18]、1907年(明治40年)3月に勅令の帝国鉄道庁官制が公布され、同年4月1日に鉄道作業局を改組した帝国鉄道庁が設置され、帝国鉄道が開業した[2][14]。 次いで逓信省は、「帝国鉄道庁は民事訴訟に付き国を代表す」、「帝国鉄道庁ニ多度津工場増置」など法規を公布して、土地収用及び路線増設を進めた[19]。 この鉄道の運営には当初から特別会計が設置されていたが(西園寺公望内閣)、さらに1909年(明治42年)には帝国鉄道会計法の全部改正により、資金不足の際は帝国鉄道会計の負担による公債発行、または他特別会計からの借入れを行い得るようになった(第2次桂内閣)[20]。 1909(明治42)年度予算によれば、同年の国の歳入予定は3億2,053万4,132円であったところ[21]、この鉄道は1908(明治41)年度までの2年間で建設及び改良費として6268万4226円を支出しており、1909年(明治42年)から1913年(大正2年)までの5年間の支出予定は1億180万6584円で、年間予算のうちの6 %から18 %以上を帝国鉄道事業が占めていたことが分かる[22]。なお、帝国鉄道の他に、外地であった中国関東州(南満洲鉄道)や朝鮮(朝鮮総督府鉄道)の鉄道事業の予算もかかっている。 鉄道院相次ぐ鉄道行政の所管変更、監督組織と現業組織の分離による混乱は、1906年の鉄道国有化をきっかけに社会問題となった。このため政府は1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した鉄道院を新設し、再び内閣の直属機関とした(第2次桂内閣)[2]。 初代総裁は後藤新平であり、その下に総裁官房と総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。北海道(北海道および青函航路所管・札幌)、東部(東北線所管・上野)、中部(東海道線および中央線所管・新橋)、西部(山陽線・四国および関門・関釜航路所管、神戸)、九州(九州所管・門司)に鉄道管理局が設置され、各地の運輸事務所と保線事務所(その後一時廃止され1913年復活)、工場などを統括した。このほか関東庁および拓殖局とともに南満洲鉄道(満鉄)の監督権も所管し、同社の鉄道事業に関して監督した。 その後数次の官制改正によって、1913年に4部の技術部・運輸局・監督局・経理局への再編、1915年に鉄道管理局区域の一部見直し(東管、中管、西管の局界変更)[23][24]、1918年に建設局の新設を行った。また1919年5月1日には鉄道管理局の大規模な再編を行い、札幌、仙台、東京、名古屋、神戸、門司の6鉄道管理局が発足した[25]。 なお、1920年3月に、鉄道路線の沿線別に温泉地の所在をまとめた『温泉案内』を初めて編纂して発行した。これ以降、鉄道省に変わってからも『温泉案内』を編纂した。 鉄道省交通運輸施策の拡充を掲げる立憲政友会の原内閣によって1920年、鉄道事業の権限強化・独立を目指して[26]、鉄道省に昇格した[2]。1920年5月15日「鉄道省官制」(勅令144号)に基づいて設置された[1]。
初代大臣は元田肇。中央に大臣官房と監督・運輸・建設・工務・工作・経理の6局、地方に鉄道管理局を改組した鉄道局と教習所、改良・建設事務所、鉄道病院が設置された。 発足当初は、立憲政友会による省幹部の大量更迭など、当時端緒についたばかりの政党内閣との間で鉄道敷設の利権が絡んだ混乱が見られ、社会の批判も浴びた[27][28] が、のち国内経済の発展に伴う交通需要の増大を受け、昭和初期にかけて国鉄・私鉄をはじめとする陸上交通全般の近代化を推進する母体となった。 歴史鉄道局は、鉄道院鉄道管理局を継承した札幌・仙台・東京・名古屋・神戸(1928年5月、大阪鉄道局に改称し大阪に移転)、門司の6局体制でスタートした。また欧米に比べ立ち遅れが指摘されていた電化を推進するため、1921年に電気局を設置し、各地に省営の発電所を新設した。1928年からは逓信省が扱っていた自動車などの他の陸上交通部門も管轄した。一方、満鉄の鉄道事業に関する監督権は1929年に拓務省に移された。 1927年には、貨物輸送需要が増大する中、複雑な運賃制度と小規模運送事業者の乱立で混乱を招いていた小口貨物業界の対策として、取り扱いを鉄道省直営として鉄道と民間運送業者が協調して運送することとし、各地の鉄道局・運送店・商工関係者が参加した「運輸委員会」を全国37か所に設置した[29]。この仕組みが鉄道利用運送事業(通運事業)のもととなった。 このほか、鉄道を利用しやすくするために運送規則や旅客運賃の割引制度を柔軟化[30][31] したり、いわゆる「戸口から戸口へ」方式の宅扱貨物の取り扱いを始める[32] など、制度の近代化とサービスの拡充に取り組んだ。また国際的な旅客需要を喚起しようと、1930年には外局として国際観光局が設置された[2]。 鉄道網の整備に合わせて、鉄道院時代から再三政治の場で論議されてきた鉄道局の新設も行われた。1935年に広島(大阪・門司から分離)、1936年に新潟(仙台・東京から分離)の両鉄道局を開設。さらに1943年には樺太鉄道局(樺太庁鉄道から編入)が発足した。 しかし次第に戦時色が濃くなると、鉄道省の組織も大きく影響を受けた。1935年には全国の運輸委員会が、軍部が参加した鉄道局別の「交通協議会」に改組され、各地方の陸上輸送統制組織に変わった[33]。1938年には満洲国鉄道総局、朝鮮鉄道局と関係鉄道会社および船舶会社とともに「内鮮満支貨物連絡運送規定」を制定し、朝鮮半島や大陸との輸送体制強化を図った[34]。さらに1941年には戦時体制の強化に伴って需品局を設置した。 1942年には、政府の行政簡素化方針にもとづく官庁機構整備を前に、大規模な組織統合を行った。本省機構を総務・要員・監理・業務・施設・資材の6局体制に縮小したほか、地方組織についても大幅に変更した。3月14日、鉄道技術研究所が設立された(勅令)。 さらに1943年11月1日、戦時体制に伴う官庁統廃合の一環として逓信省と合併し、運輸通信省に改組された。 1942年の地方組織再編1942年9月11日に行われた鉄道省の組織統合は、兵役などに伴う鉄道職員の欠員増大が理由[35]。この再編で発足した「管理部」は、戦後の日本国有鉄道における「鉄道管理局」および国鉄分割民営化後の各旅客鉄道の「支社」の母体となった。
陸送転移への適応1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発すると一部の車両が海外占領地での軍事輸送などに使用するため内地から送られた。また、貨物輸送が優先されたため貨物列車向けの機関車増強が実施され、旅客輸送や民需物資の輸送は、質、量共に低下していった。貨車自体も増積みが実施され、輸送の効率化が図られた。 内航海運に充てられていた船舶も外航への転用が図られたため、内地用の船舶数はさらに逼迫し、日本近海の輸送を水運から陸運[注釈 1]に切り替える「陸送転移」が進められた。山陽本線など一部幹線では輸送力増強策が図られ、関門トンネルの開通などは陸送転移を促進した。陸送への完全転移が望めない場合は一部を陸送に転移する「中継輸送」が取られた。中継輸送の例として、阪神地域において敵潜水艦の襲撃を受けにくい日本海側の航路が利用されたことが挙げられる[36]。これらの施策により国鉄の設備は酷使され、事故も多発していった。レールに代表される、安全・安定輸送に必要な取り替え資材も不足した。 太平洋戦争による被害1944年(昭和19年)末以降になると、日本本土空襲が激化していった。1944年(昭和19年)10月、100機のB-29を率いてサイパン島に着任したアメリカ陸軍航空隊の第20空軍 隷下の第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は、高々度精密爆撃による「六市・六産業」攻撃論者であった。六市とは東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸を指し、六産業とは鉄鋼、航空機、造船、港湾倉庫、ボール・ベアリング、電機を指す。一方、その後任として1945年(昭和20年)1月20日にグアムに着任したカーチス・ルメイは住宅地を含む焼夷弾無差別爆撃論者であり、攻撃対象を全国の都市に拡大した。
しかし、当時の日本国内で近代的な陸上交通機関としては絶対的な地位を占めていた鉄道網を軍として明確に攻撃対象とすることは無く、鉄道網に対する組織的な攻撃は1945年(昭和20年)8月15日の岩国機関区に対する爆撃が最初にして最後であった。なお、国鉄によって運用されていた航路については日本の保有船舶が受けた壊滅的損害と同様に大きな損害を受け、何れも切断されている。 このため、空襲時に周囲の市街地ごと駅や車庫などの設備が焼失したり、洋上の航空母艦から発進した艦上機の機銃掃射[注釈 3]を受けた列車などがあったほかは、国鉄の輸送網が完全に機能不全に陥ることは無かった。こうして、終戦の日も国鉄の列車は運行され続けたのである。こういった事実から、青木慶一はドイツ軍による組織的な輸送網の要点攻撃の対象になった国々の事例を示した後、(被害は)「ポーランドやフランスの足許にも及ばない」と述べている。また、終戦後満洲国やドイツで見られたようなソ連軍による線路を含む設備の持ち去りも無かった。 1966年(昭和41年)2月26日、参議院運輸委員会において公明党の浅井亨議員は当時の日本国有鉄道総裁石田礼助に対し「国鉄は戦争で壊滅的打撃を受けたが、これに対して、充分な復興措置が取られたのか」と質問した。青木慶一は「壊滅的打撃を受けた事実がない」「日本国鉄の輸送力が貧弱である現状を、その原因が米軍乃至米国に在ると称して、罪を米人に転嫁しようとしている」と批判している[37]。 服部卓四郎は著書において次のように述べている。 運賃歴代大臣
鉄道大臣(てつどうだいじん)は、鉄道に関する事業を所轄していた国務大臣で鉄道省の長であった。略称は鉄相(てっしょう)。
鉄道次官→詳細は「事務次官等の一覧 § 運輸事務次官」を参照
鉄道部門幹部
鉄道部門幹部(鉄道省以前)
※鉄道作業局改組
※逓信省鉄道局・帝国鉄道庁統合
路線→「日本の国有鉄道に編入された鉄道の一覧」および「鉄道国有法 § 被買収私鉄の一覧」を参照
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |