塩沢兼人
塩沢 兼人(しおざわ かねと[注 1]、本名:塩澤 敏一(しおざわ としかず)[1]、1954年〈昭和29年〉1月28日[7][9][10] - 2000年〈平成12年〉5月10日[2][11][12][13])は、日本の声優、俳優。 生涯生い立ち子供の頃は病弱で運動神経もダメだったことから、家からあまり出してもらえなかった[7][14]。幼稚園退園後、両親は「この子はどうしたもんだろうか」と困り、3ヶ月だったが、劇団ひまわりに所属していた[7][9][14]。その時は芝居に興味がなく、イヤだったという[9]。入団時の試験の際、塩沢の前の子供がただ「お父さ〜ん」と呼べばいいのを、ウジウジと泣き出しているのを見て「何てだらしないんだ」と思ったという[9]。対照的に塩沢はちゃんとしており、その時に合格したという[9]。舞台に上がったことはあったと語るが、入所式のテストした覚えていなかったという[7]。塩沢自身は近所の子供と遊んでいる方が楽しく、そうしていくうちに小学校入学で、今度は「そうすると、芸能界はやっぱり悪い影響があるんじゃないか」と考えており、退団させられたという[7][9][14]。「だけどそれがもしかしたら、この仕事に入ってまた一番の根っこの部分なのかもしれない」と思っていたという[14]。 塩沢は小学校時代、「自分はそういうところに居たんだ」という変な自負はあったようだった[7]。そういうことをしていると、「ボクはほかの子とは違う」のような意識がどこかにあった[9]。その時は王子様を演じたわけではないが、影響はあったという[7]。どこかに劇団ひまわりを引きずっており、不思議なことに段々芝居が好きになっていった[9]。中学生時代には演劇部がなく、その頃20人集めないとクラブが作れなかったため、仲間を沢山集めて中学3年生の時に自ら演劇部を結成し部長を務めた[9][15]。中学2、3年生の時に父母を亡くし、祖母に引き取られる[4]。 日本大学第二高等学校を経て[4]、日本大学芸術学部演劇科[8][16]で本格的に芝居を学ぶ[9]。高校の選択も、日本大学芸術学部演劇科への進学も踏まえてのものであった[9][15]。高校時代の一時期は、人並みにスネてみた時期もあったという[4]。高校卒業の頃は学校の中ではなく、どこかよそで仲間を30人くらい集めて劇団を結成したり、その公演の準備に忙しかった[17]。卒業もでき、大学も合格し、何の心配もなく演劇に熱中できたという[17]。結局、高校卒業後の4月の末か5月のはじめに東京都の豊島区民センターで安部公房作の『棒になった男』を上演していた[17]。芸能界に入ろうというのは明確な理由というわけではなく、会社員にはなりたくなくて「昼間ブラブラしてたいなあ」という不健全な考えのためであった[4]。大学時代、正科でバレエがあったが、それで挫折しており、そのうえに、文化祭のような時に、1年生だけで芝居をしていた[7]。それを演出部の先生に「芝居になっていない」と言われ、塩沢が演出していたが、抗議に行った[7]。単位を取るのも大変で、頭下げに行くのも嫌であることから、それに、「これからの芝居はミュージカル主体になってくるんだろうな」と思っていた[7]。その時に「ああ、めんどくさい、もうやめた」と感じで、進学した年の10月には中退したが、籍は2年間残っていたという[7]。同時に祖母には猛反対されたが、同大学を1年通って中退した時は、スンナリ認めてもらえたという[4]。 自称「短絡思考の傾向あり」であり、大学中退後は「僕は芝居に向いてないんじゃないかなあ」と思い、1年位アルバイトにうつつをぬかしており、東京都港区六本木の深夜バイト、ウェイターのアルバイト、喫茶店でのアルバイトをして結構楽しんでいた[4][7][9][18]。一方、ブラブラしながらも「このまま人生が行くんじゃ困ったもんだ」とも考えていたという[9][4]。その頃、東京都新宿区の紀伊國屋の専門学校コーナーで偶然『あなたも声優になりませんか?』という塩沢曰く「ヤクザなパンフレット」を見てしまい[8][19]、「やっぱり芝居やりたいなあ」「このままいっても『小さなお店を一軒もって~』という世界から出られない」「どうせなら好きなことをやろう!」「声優になろうか」と思い、東放学園専門学校東京アナウンス学院放送声優専科に入学[4][9][18]。その時は同学院を訪ね、お金があまりなかったため、頼みこんで、研究科に入ってもらったという[18]。当初は「授業料だけは取り返してからやめたいな」という感じだった[7]。当時は「そこを出れば、仕事になるだろう」ぐらいに簡単に考えていたが、最初は上手くいかなかった[4]。同時にぐるーぷえいとに所属[8][16]。アルバイトと同時に芝居をし、更に勉強を続けていた[4]。当時は自宅はあり、小遣い銭はアルバイトで稼げば済み、純経済面からいけば、食うように困らぬノン気な浪人生活だった[4]。 キャリアタイトルは覚えていない位だが、20歳で洋画の吹き替えの一度に10数人の「ワーッ」と言いながら撃たれ、崖から落ちて10数回死ぬ役でデビュー[4][9]。そのたった一ヵ月後に、映画『レッツ・ゴー!ハーマンズ・ハーミッツ』の主役、ハーマン役を演じる[4][9]。その時は「ワーッ、僕もこれで」と大喜びしたのも間、その後は全然呼ばれなかったという[4]。経済的に困らなかったという条件もあるが、役者になるために、身を正し、精進努力するというタイプでは絶対なく、塩沢曰くそういうタイプだった[4]。純・声の仕事で食べていかれたのは、1981年時点から3年前ぐらいだった[4]。1981年時点は住むところはあり、小遣いがまかなえる程度だから、10万円以上の収入が入りだしたという意味だった[4]。一時マジシャンのアシスタントなどのアルバイトもしていた[19]。しかし『笑点』などアシスタントで出て、近所のおばさん、親戚に「そういうふうに認知されるのはちょっとマズイぞ」と、結局辞めてしまったという[19]。アニメの最初の仕事は『タイムボカンシリーズ』[4]。『一発貫太くん』の戸馳二郎は最初のレギュラー役出演[19]。その後に『機動戦士ガンダム』のマ・クベを演じ、注目された[11]。1979年には、手塚治虫が直接手掛けた最後の映画である『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』の主役に抜擢されて初主演[8]および劇場映画デビューを飾っている。その時に、「なんとかなるかこれで」のようなのはどこかあったが、映画はあたらなかった[7]。 TBS系列所属の俳優だったが、次第に声を主体とした芝居のオファーが増える。 1979年にぐるーぷえいとを退所し、1980年1月1日付で青二プロダクションに所属していた[8][9]。 アニメ作品のみならず、『スター・ウォーズ』『シザーハンズ』など、吹き替えでも活躍した。 死去2000年5月9日午後4時ごろ、自宅の階段から転落[12]。その際に目立った外傷はほとんどなく、本人も「大丈夫だ」と言っていたが、午後10時ごろになって容体が急変[12]。意識不明になり、東京・西新宿の東京医科大学病院へ搬送される。翌日午前0時54分(9日深夜)、脳挫傷により同病院で死去。46歳没[1][12]。 葬儀は中野区の宝仙寺で執り行われた[13]。戒名は碧海院法優日敏信士。 人物・エピソード塩沢自身も父も母も一人っ子だったため、いとこやおじやおばが全然いなかったという[4]。 1981年時点は東京都中野区鷺宮にあるアパート経営を兼ねた家に住んでいた[4]。 1990年代の声優ブームの頃、夏をテーマにしたソング集を当時の人気声優たちが歌うCDアルバムが発売され、塩沢も参加している。しかし、塩沢本人は「歌は苦手」と語っている。また、その時夏に関する思い出を訊かれ「最悪です」と答えている。理由は過去に海に遊びに行ったところ、誰か遊泳していると思ったら水死体で、言葉にできぬほど恐怖した記憶があるからだという。「もう、海は見るのも嫌だなぁ」とコメントした塩沢だが、スキューバダイビングを趣味にしており、一緒に潜る先輩に柴田秀勝の名前を挙げている。またサザエやアワビといった、いわゆる海の幸が好物でもあった。その他の趣味は旅行[20]。 趣味は読書、旅[9]。 酒が大好きである[4]。スポーツもあまりやらず、楽器もやらず、酒を飲むことから車もやらなかった[4]。結局「一番最高なのは、ジャズのレコードを聴きながら、部屋で酒を飲んでいる時」であったとのこと[4]。特に日本酒が好みで[4]、高級な大吟醸よりも辛口の二級酒派であった。他に焼酎やウイスキーと酒なら何でも好きであったという。飲む場所も、なわのれん、スナック、自分の部屋など、その時の気分やメンバーに合わせてどこでもOKであった[4]。鈴置洋孝はよい飲み友達であり、「独特の声は酒好きに所以するのでは?」との意見が、自他の両方から出ていた。また、共演作の多い神谷明とも親交が深かった。他に会えば飲む仲間として島田敏、二又一成、龍田直樹、森功至、山口健の名前を挙げている。中原茂はとある飲み会の三次会が終わった後に、「もう(電車もなく)家に帰れないだろう?うちに来て付き合ってよ」と言われてお邪魔したことがあると自身のホームページで語っている。実際に訪ねることになり、当時飲めなかった中原は酒を飲まなかったが、塩沢は好きな日本酒を飲み、2人でとりとめのない会話をしたという。 潘恵子とは、同じく日本大学芸術学部演劇科出身で同学年だったが、詳しくは知らなかった[9]。塩沢は前述の通り比較的早く中退したため、学内で「ああ可愛い娘が歩いてるな」という感じで見ていたが、後に潘と同じ仕事をするようになるとは、よもや思っていなかったという[9]。しかし1980年当時、塩沢の友人が潘と親しかったため、その友人と会う時に偶々潘と会ったりはしたことはあったという[9]。 声優になってからの芝居(舞台)の出演もいくつかあり、1987年にはその話題を矢尾一樹がパーソナリティを務めるラジオ『アニメ情報局ラジオマガジン』のドデスカ電話コーナー内で触れられ、「何を血迷ったかやることになってしまいまして」と発言していた。また同ラジオ内では当時自らの持ちキャラクターだった『聖闘士星矢』の牡羊座のムウのことを「別に二枚目でもなんでもない」、「ヘンに世の中を超越した役」と述べている。 後輩声優である緑川光は、目標としている役者に塩沢を挙げている。 特色声種はテノール[9][22]。甘く、クールで、憂いを帯びており、声優仲間たちから、「唯一無二の声」という言葉を贈られる声だった[11]。 デビュー以来、カゲのある個性的な悪役から教育番組のナレーションまで幅広くこなしていた実力派[8]。かつてはプライドの高い美形役で知られていた[23]。その貴族的な声質から美形、二枚目役を務めることが多く、そのため『銀河旋風ブライガー』のブラスター・キッド役を演じた際には戸惑いを覚えたが、「おかげでギャグ的な演技に慣れた」とも語っている。一方では「美形が持ち役」と言われることは、自分は同じ芝居をしていると思われるため、代表作に三枚目の役を入れることもあったと語る[24]。 作っていた声の種類はある程度の幅というのは一番張っており、この役にとって、割れたりせずひっくり返しもしないため、一番テンションの高いところを選んで演じていたが、あまり整理されなかったりしていたという[7]。 一番地声に近いと思うのは、日常でもひっくりかえって喋ったりすることもあったが、『銀河旋風ブライガー』のブラスター・キッド役はほとんど地声だったという[7]。 一方、『戦国魔神ゴーショーグン』のブンドル役、『未来警察ウラシマン』のルードヴィッヒ役は比較的高い声だが、塩沢自身は非常にかまえて喋る人物というところがあるため、「自分が偉いんだ」と思い、喋っていたことから、全然違うという[7]。 声で得したことなどはなく、自分では「声がいい」と思ったことは一度も無かった[7]。声で食べて行こうと思ったのは職業としての声優自体がはっきり分かってないで入っていったわけであった[7]。しかし放送の中で、「比較的、芝居を必要とする分野だろう」「そういうものを、仕事にしていくというのは面白そうだな」と思い、自分の声を生かしてなどは全然なかったという[7]。 独特の悪役演技の形成について、本人は「『機動戦士ガンダム』のマ・クベ役が大きなきっかけになった」と述べている。同時に「実はマ・クベを演じるまでは悪役を演じること自体に抵抗があった」ともいう。その反面、「幼稚園児の時に幼稚園の窓ガラスを割ったりする乱暴な一面もあった」とも述べている[4][7][9][14]。 『ハイスクール!奇面組』の物星大のような「おかま」の役[7]も多く演じたが、自身は「そういう役ばかり来た時期もあって、一時はやや困惑していたこともある」と回想している。なお、『ハイスクール!奇面組』のオーディションでは同役しか受けていなかったという[7]。OVA『間の楔』など、黎明期のボーイズラブ系作品でも大きな足跡を残した。 『銀河英雄伝説』のパウル・フォン・オーベルシュタインについては、原作者の田中芳樹も適役と評している。しかし最初のアニメ化である劇場版『わが征くは星の大海』に関しては、ひとこと台詞があるだけの端役に過ぎなかったため、原作小説では主要人物だと知らなかった塩沢は、困惑めいた発言を残している[25]。 没後実力も知名度も高く、多数のレギュラーを抱え、声優として脂の乗り切った時期の急死は、各界に衝撃を与えた。 塩沢と親交があった先輩声優の柴田秀勝は後輩との突然の別れに、弔辞の中で「馬鹿野郎」と怒りを交えて嘆いた[11][注 2]。死去から5日後に放送された準レギュラー番組の『名探偵コナン』第190話「命がけの復活 第三の選択」の冒頭で追悼テロップが流され、塩沢没後に行われたアフレコでは、本人もお気に入りだった白鳥任三郎の写真を全員首から下げてアフレコが行われた。そして持ち役の一部は様々な声優に引き継がれることになった。特に山崎たくみは声質が似ていることもあり、比較的多くの役を引き継いでいる。しかし、ドラマCD『ドクター×ボクサー』シリーズなど、原作者や制作スタッフの意向により、塩沢が演じたキャラクターを再登場させない、もしくは登場しても喋らせない作品もある。『クレヨンしんちゃん』のぶりぶりざえもんも、2016年に神谷浩史が引き継ぐまで16年に渡って欠番だった時期があった[26]。 ゲーム「スーパーロボット大戦シリーズ」では塩沢の死から約2週間後に発売された『スーパーロボット大戦α』が最後の収録作品となった。その後のシリーズ作品において『機動戦士ガンダム』のマ・クベ、クランプ、『伝説巨神イデオン』のイラ・ジョリバ、『戦国魔神ゴーショーグン』のレオナルド・メディチ・ブンドル、『超獣機神ダンクーガ』の司馬亮、『蒼き流星SPTレイズナー』のル・カインなどの声は現在に至るまで生前の塩沢が録音したもののみが使われており、その方針は逝去もしくは引退した他の声優にも適用されている。ジョリバやル・カインのように登場作品が長い間隔を挟んで音声付きの作品に再登場することで久々に再使用された例もある。特に司馬亮の場合、亮の声に他の登場人物の声を合わせたり、亮の台詞の前後に新録の音声を組み合わせてパイロット同士の掛け合いをさせるなど、かなり徹底している。 当時開発途中だったゲーム『メタルギアソリッド2』にて、監督・小島秀夫は「ヴァンプは塩沢さんのためにつくったキャラクターだったんですが残念なことになってしまった」と塩沢に声を担当してもらおうとしていたが実現しなかったことを語っている。そして自身の作品である『スナッチャー』や『ポリスノーツ』などに出演した塩沢の死を深く悼み、追悼の意味を込めて本来ならば作品に入れる予定の無かった前作『メタルギアソリッド』に出演した際の声を、寺瀬今日子が演じるキャラクターのセリフとしていくつかデモシーンなどで使用している。それに合わせて寺瀬の音声も編集し、前作の塩沢の役の雰囲気に似せている。後に『メタルギアソリッド4』の回想シーンでも登場させている。『メタルギアソリッド』が『大乱闘スマッシュブラザーズX』にはゲスト出演した際、ソリッド・スネークと共に、アシストフィギュアとしてサイボーグ忍者が登場。同作で収録していた声が使われている。また、小島は過去のラジオで「塩沢さんはすごいんですよ。スタジオに塩沢さんが来ると雰囲気が変わるんですよ。一番おいしいところをさらって帰ってきはる。」、「塩沢さんと井上喜久子さんは必ず僕のゲームに出るっていうので、台本を書くときに決めているんですよ」、「塩沢さんのあの演技ができるのは塩沢さんしかいないので、塩沢キャラというか。で、塩沢さんに代わる人を探しているんですけど。だから塩沢キャラみたいなのがもう出せないんですよ。それ以降メタルとかで。」と語っている。 塩沢の死から半年後に発売されたゲーム『テイルズ オブ エターニア』では、前々作『ファンタジア』にてダオスを演じた塩沢への追悼の意を込め、ダオスに酷似したキャラクター「ゼクンドゥス」を急遽登場させた。ボイスは全てダオスのものが流用されている。 格闘ゲーム『GUILTY GEARシリーズ』では暗殺者ザトー=ONEを演じたが、第2作『GUILTY GEAR X』の制作中に急死したため、キャストテロップに「(LATE)」(日本語で言う「故-」のこと)の表記が追加され、エンディングもザトーが自らその身に取り込んだ禁獣・エディによって衰弱死するものに急遽差し替えられた(本来は禁獣・エディの支配から逃れ、ザトーとして今後戦うようになるエンディングだったと開発者から明かされている)。 アニメ『ゲートキーパーズ』で塩沢がゲスト出演した第8話のWOWOW初回放送日直前に死去したため、当回の放送開始前には故人を偲ぶメッセージが流された。 ドゥサーニュ役でレギュラー出演していたアニメ『星界の戦旗』の収録途中に死去したため、第9話以降はCDドラマ版の音声流用による出演となった。なお、翌2001年に放映された続編『星界の戦旗II』でも同じ措置がとられている。 親交が深かった神谷明は、当時のアニメ雑誌『アニメディア』での連載コーナー「声優ですよ!」でも通常の質問コーナーを差し替えて塩沢の追悼企画を組み、故人を偲ぶメッセージを述べていた。このページには塩沢との最後の飲み会の写真も掲載されていた[27]。また神谷明は「カッコいいセリフを、実にカッコよく言う。でもトチると途端に無邪気な笑顔の三枚目になってねぇ」と言っていた[11]。 後任塩沢の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 ただし、ほかの声優も総入れ替えされた作品(『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』のシャーディー(後任:佐々木望)など)はこの趣旨から外れるため、この表には記載しない。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
ゲーム2001年以降の出演作品は全て生前の収録音声を使用したライブラリ出演。
ドラマCD
吹き替え映画
ドラマ
アニメ
特撮
ラジオ
CM
舞台
その他
著書
脚注注釈
シリーズ一覧出典
外部リンク |