奴隷貿易 (どれいぼうえき、英 : slave trade )とは、奴隷 を物品のように国家間で売買する貿易 である。
古代から中世の奴隷貿易
古代ギリシア においては、戦争捕虜 が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀 から紀元前2世紀 のマンティネイアの戦い までは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港 に運ばれて戦利品 とともに売られた。スパルタ のアゲシラオス2世 [ 1] がその場での競売 を考え出し、以後は軍隊に代わって従軍する奴隷商人が担った[ 2] 。古代ギリシアの都市国家 では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷(ヘイロタイ )が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマ もこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣闘士 となりコロッセウム で戦いを演じさせられた者もいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。
中世 における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム世界 においては、その奴隷のほとんどがゲルマン人 、スラヴ人、中央アジア人 およびバルカン人 で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラヴ人に由来する。西欧 を例にとれば、ヴェルダン ではアラブ諸国 向けの宦官 の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった[ 3] 。中世のイタリア商人は黒海 において奴隷貿易を行ない、フランク人、イベリア人、イタリア人、スラヴ人、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人 、タタール人 の奴隷が、アレクサンドリア 、ヴェネツィア 、ジェノヴァ などへ運ばれた。ジェノヴァの商人は、カッファ の後背地で奴隷狩を行なった。1317年に教皇 ヨハネス22世 は、ジェノヴァに対して、異教徒 に奴隷を供給して力を強めることがないようにと警告をした[ 4] 。また、ヴァイキング によりスラヴ人 (サカーリバ )が、アッバース朝 以降のイスラム 王朝ではトルコ人 が多く奴隷とされ、トルコ人は生産奴隷ではなく奴隷兵士 として徴用された者も多かった。マムルーク王国 の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。
「奴隷」の代名詞が黒人(いわゆるブラックアフリカ 諸民)になったのは大西洋奴隷貿易 (後述)以降の時代のことであって、それまでの「奴隷」の代名詞は主にゲルマン人とスラヴ人であった。
大西洋奴隷貿易
概要
アフリカ に於ける奴隷狩りの様子。
奴隷船 の内部構造。
大航海時代 に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ (スペイン 、ポルトガル 、オランダ 、イギリス 、フランス 、デンマーク 、 スウェーデン 、アメリカ州 を含むヨーロッパ系植民者)とアフリカ大陸 とアメリカ大陸 を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション 経営に必要な労働力となった(→三角貿易 )。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システム の外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下、さらに現地生まれの奴隷も増えたことで、植民地における奴隷の価格は、原価高騰分を吸収できるほど高くならなかったことなどにより、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後は人道主義 的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年 にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国 、ンドンゴ王国 、モノモタパ王国 などは衰退の運命を辿った[ 5] 。
歴史
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易 (英語版 ) は、1441年 にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス (英語版 ) が、西サハラ 海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子 に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人 で、黒人ではない。また、拉致された人々も、王室で働く下僕ということで、扱いはさほど悪くなかったもようである。
ポルトガルの貿易権を確認するため、アフォンソ5世 は教会の道徳的権威を求めてローマ教皇ニコラウス5世 に支援を求めた[ 6] 。1452年 、教皇はアフォンソ5世 に宛てた勅書でサラセン人 や異教徒を攻撃、征服、服従させる権利をポルトガルに対して認めている[ 7] 。
この教皇勅書についてリチャード・レイズウェルは、西アフリカ の海岸沿いで最近発見された土地を指しており、地理的に限定されていたことは明らかであると述べている[ 7] 。ポルトガルの事業は、西アフリカの金 と象牙 を独占していたイスラム教徒のサハラ砂漠横断 キャラバン に対抗するためのものであった[ 8] 。
ニコラウス5世 の勅書は4年後の1456年に教皇カリストゥス3世 の教皇勅書 インテル・カエテラ によって上書きされ効果は引き継がれた。1456年 3月13日、オスマン帝国 の進攻に対抗する作戦への支持を集めるために、教皇カリストゥス3世は教皇勅書インテル・カエテラ (1493年のインテル・カエテラ と混同すべきでない)を発布した。この教皇勅書は、ポルトガルが西アフリカ沿岸で発見した領土に対する権利を認め、サラセン人 等の異教徒の領土をキリスト教国王領とし永久に臣下にすることを認めた先行する2つの教皇勅書を承認、更新するものであった。教皇カリストゥス3世はヨーロッパ各国に大使を派遣し、諸侯にトルコの侵略の危機を食い止めるために再び参加するよう懇願したが、ヨーロッパの諸侯は、それぞれの国家間の対立もあり、教皇の呼びかけになかなか応じなかった。1456年 6月29日、カリストゥスは、ベオグラード を守る人々の幸福を祈るために、正午に教会の鐘を鳴らすよう命じた。ハンガリー 軍総司令官フニャディ・ヤーノシュ 率いる軍はオスマン帝国軍 と遭遇し、1456年7月22日にベオグラードでこれを撃破した[ 10] 。
特定の国民国家に排他的な勢力圏を委託するという概念は、1493年 、ローマ教皇アレクサンデル6世 の教皇勅書インテル・カエテラによって承認、更新され、西アフリカ沿岸からアメリカ大陸に拡大された[ 11] [ 12] [ 13] 。
教皇アレクサンデル6世の教皇勅書には、ポルトガルとスペインの双方とも全く注意を払わなかった[ 14] 。その代わりに1494年 のトルデシリャス条約 を交渉し、線をさらに西に移動し、ポルトガルのカーボベルデ諸島 の西370リーグの子午線 とし、線の東に新たに発見された全ての土地を明確にポルトガルに与えることになった[ 15] 。
1512年 、ポルトガルがモルッカ諸島 を「発見」したことを受けて、スペインは1518年 に教皇アレクサンデル6世が世界を2つに分けたという説を唱えたが[ 16] 、この頃までには他のヨーロッパ諸国は、教皇が新世界のような広い地域の主権を統括する権利があるという考え方を完全に拒否していた。スペイン国内でもフランシスコ・デ・ビトリア のような有力者がインテル・カエテラの有効性を否定していた。スペインはローマ教皇庁の教皇勅書に基づく領有権を放棄しなかったが、スペイン王家は大西洋の境界線をめぐってローマ教皇の制裁を求めることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接交渉をすることを選んだ[ 17] 。
1512年 、カリブ海 (後にジャマイカ 、プエルトリコ )の先住民の虐待を禁止したブルゴス法 が定められたが、1537年 の教皇勅書スブリミス・デウス によって以前の教皇勅書を更新・拡大したインテル・カエテラ(1493年 )は最終的に無効にされた。
大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族 闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島 に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖 生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者である黒人やアラブ人 商人である。
初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地 化に伴うインディオ 人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと[ 注釈 1] 、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜 は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、奴隷狩りから奴隷貿易へのシフトは、中南米植民地の開発よりもずっと早い1450年 代に起こっている。1450年代に入ると、カシェウ (ポルトガル領ギニア 、現ギニアビサウ )、ゴレ島 (セネガル )、クンタ・キンテ島 (ガンビア )、ウィダー (現在のベニン のギニア湾 に面する奴隷海岸 )、サントメ (コンゴ )などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
1480年 代にはエルミナ城 (黄金海岸 )が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社 (英語版 ) が設立されるにいたった(勅許会社 )。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの冒険商人による奴隷狩りが散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンス とフランシス・ドレーク の航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による奴隷狩りはごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞 /商館 /収容所 兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国 (英語版 ) 、ダホメ王国 [ 19] 、セネガンビア など西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は元々、奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷 、犯罪者 などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた[ 20] 。16世紀には、ナイジェリア (ラゴス )などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
奴隷販売の広告(1829年)。
18世紀 になると、イギリスのリヴァプール やフランスのボルドー から積み出された銃器 その他をアフリカにもたらし、原住民と交換。さらにこうして得た黒人を西インド諸島 に売却し、砂糖 などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易 が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスター で綿工業を起こした。イギリス産業革命 の基盤である綿工業 は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行 の設立資金やジェームズ・ワット の蒸気機関 の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。[ 5]
規模
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年 のフィリップ・カーティン の説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった[ 注釈 2] 、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀 - 17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を大きく超えることはないと考えられている[ 20] 。
なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、考察しようという試みはあるものの、正確な記録が無いため全くわからないが、様々な推定から、「輸出」された人数の少なくとも半分(0.5倍)という見積もりから、最大で5倍程度に達するとの見方もある。
奴隷貿易から植民地化へ
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教 的および人道主義 の立場から批判が起こっていた(「奴隷制度廃止運動 」を参照)。特に18世紀後半以降、奴隷に頼る必要のない本国における宗教的/人道主義的意見と、アフリカの人的資源の枯渇による奴隷価格の高騰と、生産過剰による奴隷と交換するべき砂糖やタバコなどの産物の価格低下という植民地側の事情がかみ合った。19世紀 初頭には、まず(奴隷制度 では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、1803年、デンマークで世界初の奴隷貿易禁止法が発効した(法制化は1792年)。工業化により奴隷獲得の経済的利点が薄れた最大の奴隷貿易国であったイギリスは1807年 、アフリカ人奴隷貿易 (英語版 ) 禁止を打ち出し (en:Slave Trade Act 1807 )、ナポレオンとの戦い で海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴス などポルトガル人 の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人 の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から[ 21] 、1835年 にグレート・トレック が起こっている。奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事がある、武力侵略に因って植民地とした地域の原住民を工業化による経済的優越を背景に安価な労働力として利用出来るのであれば、奴隷に頼る優位性は特に無いためである。しかし、イギリスによって奴隷貿易の中心である西アフリカ 、東アフリカ の沿岸地帯の植民地化(アフリカ分割 )が始まったのは、廃止から50年以上たった19世紀 半ば以降のことであり、直接の関係は無い。
その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制 は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年 、スウェーデン海外植民地 では1846年 、フランス領 では1848年 、オランダ領 では1863年 に、奴隷制が廃止された。
こうした動きの中、アメリカ合衆国 では1808年 に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花 プランテーション で奴隷を使役したいアメリカ合衆国南部 の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナン からモービル に110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号 であった[ 22] 。その直後に勃発した南北戦争 で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国 (南軍)が敗北。1865年に奴隷制が全廃された。
奴隷貿易への批判・謝罪
1200万人ともいわれる成人男女(後期には若年層も含む)を連れ去った奴隷貿易の影響は、現在にも及んでいるとする説がある。ネイサン・ナン (英語版 ) の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は、現在のアフリカでは最貧困地域になっている。また、ネイサン・ナンとレナード・ワンチェコン (英語版 ) の研究によると、奴隷貿易の被害にあった地域では、そうでない地域に比べると家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという。
21世紀においても、奴隷貿易への批判は後をたたない。2004年3月、奴隷貿易に関与していた英国ロイズ保険組合 、米国たばこメーカー大手R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー などに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こした。
2020年 6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモ は世界各地へ波及。英国ブリストル 市内では、熱心な慈善活動家である一方で奴隷商人でもあったエドワード・コルストン の銅像がデモ参加者の襲撃を受け、地面に引き倒された後にエイボン川 へ投棄される出来事があった[ 25] 。
中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易
前期倭寇 は朝鮮半島 、山東半島 、遼東半島 での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐 、対馬 、北部九州 で奴隷として売却し、琉球王国 にまで転売された事例もあった[ 26] 。
後期倭寇はさらに大規模な略奪と奴隷狩りを行い、中国大陸 東南部の直隷 、淅江 、福建 、広東 などを襲撃して住人を拉致、捕らえられたものは対馬 、松浦半島 、博多 、薩摩 、大隅 などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ 、カガヤン・バレー地方 、コルディリェラ 、リンガエン湾 岸、バターン半島 、カタンドゥアネス にあった[ 27] 。マニラの戦い (1574) 、カガヤンの戦い (1582) で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはスペイン領フィリピン 北部に及ぶ大規模なものだった。
乱妨取り や文禄・慶長の役 (朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張して密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部は、ポルトガル商人によってマカオ 等で転売されインド に送られた者もいた[ 26] 。キリスト教イエズス会 は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイス は、倭寇の一団から身を守るために、宣教師 たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[ 28] 。
鄭舜功 の編纂した百科事典『日本一鑑 』は南九州の高洲 では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州 、興化、泉州 、漳州 の出身だったという[ 29] 。
歴史家 の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩 の京泊に連れて行かれ、そこで仏教 僧 に銀 四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸 では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島 に渡り、翌年に中国に帰国することができたという[ 30] 。
文禄・慶長の役 では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧の慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 慶念『朝鮮日々記』
と記録を残している[ 31] 。
歴史学者の渡邊大門 によると、最初、乱取りを禁止していた豊臣秀吉 も方向転換し、捕らえた朝鮮人を進上するように命令を発している[ 32] 。
『多聞院日記 』によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、朝鮮出兵の基地であった名護屋城 下に送られた。[ 33]
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[ 34] [ 35] 。
日本人奴隷の貿易
16世紀から17世紀にかけての日本は、大航海時代を迎えて列強 となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代は日本は室町 から安土桃山時代 の乱世(戦国時代 )にあたり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易 )。日本へは絹織物 、金、生糸 、中国の磁器 、麝香 、ルバーブ 、アラビアの馬 、ベンガル の虎 、孔雀 、インドの高級な緋色の布、更紗 、フランドル の時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルワイン 、レイピア などが入り、日本からの輸出品には硫黄 、銀 、海産物、刀 、漆器 、そして少数ではあるが日本人 奴隷が含まれていた。ポルトガル船の主要品目に硝石 は含まれない[ 36] が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウム を抽出する古土法、主にカイコ の糞を使う培養法による硝石 製造が五箇山 等の各地で行われ国産化が進んだ。
1514年にポルトガル人がマラッカ から中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では絹等の中国製品が不足していた[ 37] 。
当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[ 38] 。
古来から日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り )がしばしば行われていた。この時代に入ると、侵攻地域に居住する非戦闘員に対する拉致や、非戦闘員の拉致自体を目的とした侵攻も恒常的に行われるようになっていたと考えられている。この時代に大内氏 や尼子氏 と代る代る戦争をした毛利氏 は、領内深くに尼子氏が侵入してきた際、居城に非戦闘員である農民や商人らを収容して尼子氏による乱妨取りに備えた。同種の記録はこの時代の各地で見られる。乱妨取りされた人々の中にはヨーロッパ商人や中国人商人によって買い取られ、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。[ 39]
南九州の薩摩・大隅地方ではこの時代の少し前から、人々が盛んに海外に進出し私貿易を行うようになっていた。この地域では、国外で捕虜とした人々を日本に連れ帰って、来航した外国商人に奴隷として販売する事例も見られる。遣明船 にも携わった西国の大名である山口の大内氏や、貿易都市である堺 を掌握し、細川氏 を継承する四国 の三好氏 らも、捕虜とした人々を外国商人に売却していたと考えられている。九州の南端に位置する薩摩地方の港や、「西の京」と呼ばれた山口 や、遣明船貿易で繁栄した堺の町では、これまでの明人に加えて、ポルトガル商人の活動も早くから確認できる。
1537年、スブリミス・デウス において教皇パウロ3世は異教徒を奴隷とすることを無効だと宣言していたが、1560年代 以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年 には当時の王セバスティアン1世 から日本人貧民の海外売買禁止の勅令 を発布させることに成功した。1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[ 40] 。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダ の一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷 は少数で貴重であったことや、年間数隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量、奴隷と積荷を離す隔離区間、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている[ 41] [ 42] [ 注釈 5] 。16世紀のポルトガルの支配領域において中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷 も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[ 51] 。
戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者を奴隷と考えており、下人 、所従、年季奉公 人を「奴隷」として訳していたとされる[ 52] [ 53] 。「譜代の者」「譜代相伝」と呼ばれていた下人や所従は、農業や家庭労働に使役され、日本国内において習慣法上売買の対象となっていた[ 52] 。
ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した
[ 53] 。
— 東京大学史料編纂所 『日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話』(中公新書 、2014年12月19日)pp.77-78
ポルトガル人は日本で一般的な労働形態だった年季奉公 人も不自由な労使関係から奴隷とみなすなど、多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷 であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた[ 53] 。ポルトガルでは不自由な労使関係、主従関係を奴隷と理解することがあり、使用される傭兵 や独立した商人冒険家も奴隷の名称で分類されることがあった[ 54] 。
(日本の社会において)使用人や奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している
[ 55] [ 56] 。
コスメ・デ・トーレス は日本人の主人は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における使用人を奴隷と同一視した[ 57] 。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民 と奴隷の区別をいっそう困難にした[ 58] 。
1587年 (天正 15年)6月18日、豊臣秀吉 は九州平定 の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョ との夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗 が寺社破壊や奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近 に棄教を迫ったが殉教 を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した[ 59] 。翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令 )を発布した[ 60] [ 61] 。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を批判する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[ 62] 。バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門 すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
デ・サンデ『天正遣欧使節記 』では、同国民を売ろうとする日本 の文化 ・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[ 63] 。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店 、1969年、pp.232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王 による奴隷売買禁止の勅令 後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[ 63] 。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969年、pp.232-235
デ・サンデ『天正遣欧使節記 』は、日本に帰国前の千々石ミゲル と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[ 63] 、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[ 64] 。『天正遣欧使節記』は虚構だとしても、豊臣政権 とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[ 注釈 6] 。
伴天連追放令後の1589年 (天正17年)には日本初の遊郭 ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[ 72] [ 注釈 7] 、遊郭は女衒 などによる人身売買 の温床となり、江戸幕府 が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷 への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓 を島原の乱 後の1639年 (寛永 16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん 」の語源ともなっている[ 73] [ 74] 。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓 などに売る身売り の仲介をする女衒 が、年季奉公 の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供は本人の意志に関係なく強要が横行した(性的奴隷 )。すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により日本人女性は妻妾や売春婦 として東南アジア などに行ったとされる。元禄時代 (1688-1704)の頃に唐人屋敷では中国人が日本人の家事手伝いを雇うことは一般的だったが、日本人女性は中国人が帰るときについていき大半のものが騙されて売春宿に売られたという[ 76] 。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」「唐行きさん 」として知られるほど活発であり、宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷 として売る商行為は近代まで続いた[ 77] [ 78] 。
1596年 (慶長 元年)、長崎 に着任したイエズス会司教 ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門 すると通達している。[ 79]
やがて秀吉に代わって天下人 となった徳川家康 によって、南蛮貿易は朱印状 による制限がかかった(朱印船 貿易)。さらに鎖国 に踏み切ったことで、外国人商人の活動を江戸幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
しかし、明治維新 後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公 人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清 も、少年時代にアメリカ合衆国 のホームステイ 先で騙されて年季奉公の契約書 にサインしてしまい、売り飛ばされた経歴を持っている。
明治 5年(1872年)には、横浜港 に入ったペルー 船籍船に乗せられていた清 人苦力 たちを、奴隷であるとして日本政府が解放して国際紛争となったマリア・ルス号事件 が発生している。
明治の日本では、女性を騙して海外へ連れ出し売春させるという手口が多発していた[ 80] [ 81] [ 82] [ 83] [ 84] 。
外務省訓令第一号
警視庁 北海道庁 府県
近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし
明治二十六年二月三日
外務大臣 陸奥宗光
内務大臣 華族井上馨
19世紀から20世紀初頭にかけて、日本の売春婦が中国、日本、韓国、シンガポール、インドなどのアジア各地で人身売買 されるネットワークがあり、当時「黄色い奴隷 売買 」として知られていた[ 77] 。「からゆきさん 」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧困にあえぐ農村から、東アジア、東南アジア、シベリア(ロシア極東 )、満州、インドなどに人身売買 され、中国人、ヨーロッパ人、東南アジア原住民などさまざまな人種の男性に売春婦 として性的サービス を提供した日本人 の少女 ・女性 のことである。中国 での日本人 売春婦 の経験は、日本人女性の山崎朋子 の著書に書かれている[ 85] [ 86] [ 87] [ 88] [ 89] [ 90] [ 91] [ 92] [ 93] [ 94] [ 95] 。
朝鮮や中国の港では日本国民 にパスポート を要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金が送金されることで日本経済 に貢献していることを日本政府 が認識していたことから、日本の少女たちは容易に海外で売買されていた[ 96] [ 97] 。1919年 には中国人が日本製品をボイコット したことで、からゆきさんの収入になおさら頼るようになった[ 98] 。明治日本の帝国主義 の拡大に日本人 娼婦 が果たした役割については、学術的にも検討されている[ 99] 。
バイカル湖 の東側に位置するロシア極東 では、1860年代以降、日本人 の遊女 や商人 がこの地域の日本人 コミュニティ の大半を占めていた。黒海会(玄洋社 )や黒龍会 のような日本の国粋主義者 たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦 たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した。またウラジオストク やイルクーツク 周辺では、日本人娼婦による一定の任務や情報収集が行われていた[ 102] 。
ボルネオ島民、マレーシア人、中国人、日本人、フランス人、アメリカ人、イギリス人など、あらゆる人種の男たちがサンダカンの日本人 娼婦 たちを訪れた[ 78] 。
1872年頃から1940年頃まで、オランダ領東インド 諸島の売春宿 で多数の日本人売春婦(からゆきさん)が働いていた。
脚注
注釈
^ 貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった。
^ 平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は奴隷と同程度の13-15%に達し、脱走も含めた船員の脱落率は20-25%に達している。
^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
^ 毎年一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号が与えられた[ 37] 。
^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船 が登場するのは17世紀以降である。1570年 、セバスティアン1世 (ポルトガル王) は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[ 43] [ 44] 。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[ 45] 。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船 の中でも最大級のものは載貨重量トン数 600トン(現代の計算方法で換算すると排水量 1100トン[ 46] [ 44] )にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[ 47] 。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[ 48] [ 注釈 3] 。
日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[ 49] [ 注釈 4] 。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム )の絹 を運んだという[ 50] 。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートル と推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の日本特産品の入荷量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
^ 『天正遣欧使節記 』の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。『天正遣欧使節記』はポルトガルの奴隷貿易 に関連して引用されることがあるが、イエズス会は1555年 の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発 している[ 65] 。イエズス会による抗議は1571年 のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷 貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[ 66] 。日本人奴隷 の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教 に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[ 67] [ 68] [ 69] 。ポルトガル国王やインド副王 の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[ 70] 。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[ 71] として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判 が必要と考えられる。
^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷 遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコック の『大君の都』によれば、「秀吉は…部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢 の古市、奈良 の木辻、播州 の室、越後 の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国 善光寺 様の門前 ですら道行く人の袖を引いていた。」(中村三郎『日本売春史』)のだという。
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近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし
明治二十六年二月三日
外務大臣陸奥宗光
内務大臣伯爵 井上馨 ”
^ “(28)各府県知事ト在浦汐貿易事務館間婦女誘拐者ニ関シ直接通信ノ件 自明治三十六年八月 ※1903年(明治36年)在 ウラジオストク 貿易事務官から本国日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日 閲覧。 “本邦無智の少女を誘拐して当港に来航する悪漢之有り候趣は本月八日付公第二〇三号を以て申進置候処、当港年来の商況不振は正当なる商業者より其職業を奪ひ新渡航者に対しては従前の如く容易なる生活の方法を与へず、意思薄弱なる本邦男児をして漸次堕落の境域に導き、茲に無頼の徒と化し賎業者の手に依りて漸く其口を糊するもの多きに至り候は、慨はしき次第に之有り候。而して是等無頼漢唯一の生命は実に本邦無智の少女に懸るを以て、彼等は出来得る限り好餌を捉へんと欲し、百方訏(?)策を廻らし在本邦の誘拐者と気脈を通じて、或は汽船に依り或は日本形小漁船等に依り無智の少女を誘致し之を奪食する者日一日増加の勢之有り候。”
^ 長田秋濤『新々赤毛布: 露西亜 朝鮮支那遠征奇談』文禄堂、1903年、196-198頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107 。「醜業婦の出産地 西比利亜(シベリア )に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県 天草か 、長崎県島原 辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国 から中仙道 に懸けてゞある…其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。」
^ 中村直吉, 押川春浪『五大洲探険記. 第2巻 南洋印度奇観』博文館、1909年、13-14頁。「九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。
以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが…」
^ “(7)婦女誘拐者取締ニ関シ香港領事館ト内地地方庁間直接通信ノ件 自明治四十五年七月 ※1912年(明治45)在香港総領事から日本外務省への文書 ”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日 閲覧。 “香港は南清南洋地方に於ける婦女誘拐の策源地とも見るを得べく、従て本邦より無智の婦女を誘拐し来るもの、或は斯る目的を抱きて当地より帰国する悪漢之有り。当館は斯るものに対し厳重監視致候へ共、法規の制裁之に伴はざるを以て、如何とも致難候。…”
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論文・記事
関連文献
布留川正博 『奴隷船の世界史』岩波書店〈岩波新書〉、2019年。
関連項目
外部リンク