岡村利右衛門9代[1] 岡村 利右衛門(利右衞門[2]、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日[1] - 1965年(昭和40年)12月28日[1][3])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守[1][4]。 経歴岐阜県[3]吉城郡国府村[4]広瀬町(国府町広瀬町[1]を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる[4]。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業[1][3][4]。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了し[1][3][4]マスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた[3]。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国[1][3][4]。その後、さくら水産取締役社長、国富林業合名会社代表社員、飛騨輸送協力会長、岐阜県森林組合連合会長、全国森林組合連合会理事などを務めた[1][3][4]。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で岐阜県第2区から日本自由党公認で出馬して初当選し[5]、以後、第24回(民主自由党公認)、第26回総選挙(無所属)でも再選され[6]、衆議院議員に通算3期在任した[1][3]。この間、民主自由党政調会通信委員長、衆議院運輸委員長などを務めた[1][3]。その後、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に自由党公認で立候補したが落選した[7]。 1965年(昭和40年)12月28日死去、65歳。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、従四位に叙される[2]。 脚注参考文献
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