東方文化学院東方文化学院(とうほうぶんかがくいん)は、昭和時代戦前期の日本に存在していた国立の東洋学・アジア学の研究機関である。 概要1929年(昭和4年)4月、外務省管轄の東方文化事業により発足、東京・京都の2ヵ所に研究所を設置した。学院は日本国内ではほとんど唯一の東洋学・中国学専門の研究拠点となり、第二次世界大戦後に活躍することになる多くの研究者を育成した。しかし政府の要請する研究方針の受け入れをめぐって東西の研究所で齟齬が生じ、1938年両者は東京の(新)東方文化学院と京都の東方文化研究所として分離独立した。 戦後2つの研究所は廃止されたが、このうち京都の研究所は京都大学人文科学研究所に統合されその前身の一つとされている(なお東京の研究所が東京大学東洋文化研究所の前身となったとする見解は正確には誤りである。#終焉を参照のこと)。 沿革背景設立の発端となったのは光緒24年(1899年)に勃発した義和団の乱である。結果として列強に敗北した清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされ、これは辛亥革命後の中華民国にも引き継がれた。1920年代になって中国国内では抗日の機運が高揚し、日本政府はこれを緩和するため文化事業の推進を図った。そこで義和団の乱の賠償金などを基金として、外務省により対支文化事業特別会計が設けられ、1923年以降、日中共同の東方文化事業が運営されることになった。この事業は当初、日中双方で構成された東方文化事業総委員会により進められ、その元で北京には人文科学研究所、上海には自然科学研究所が設立された。しかし1928年の済南事件により、東方文化事業総委員会は、中国側の委員が抗議の辞職を行ったため、活動継続が困難になってしまった。(後述#東方文化事業も参照) 学院の発足この事態に対し、東方文化事業を管轄していた外務省の内部では、対支文化事業特別会計法に「日本に於て行うべき中国に関する学術研究」とあるのを根拠として、中国の政局の変化に左右される北京・上海の研究機関とは別に、日本国内に日本人学者からなる独自の「支那文化研究所」を設立しようとする機運が起こった。そこで外務省の文化事業部長の職にあった岡部長景は、東方文化事業総委員会の委員でもあった服部宇之吉(東京帝国大学名誉教授)と狩野直喜(元京都帝国大学教授)に対して打診を行い(この2人は義和団の乱当時、留学生として北京の日本公使館に籠城した経験をもつ)、2人は合計33名の発起人を集め10月に東西で発起人会を開催、これを受けた外務省により東方文化学院の設立が決定された。当初の岡部の構想によれば、学院は東京だけに設置されることになっていたが、服部宇之吉の「京都は中国研究の盛んなところでもあるし、狩野先生もおられるから」という意向によって京都にも研究所を設けることになった、という話が伝わっている。 1929年4月に外務大臣の助成金交付命令が下り東方文化学院東京研究所および京都研究所が正式に発足した。学界代表として設立に尽力した服部は、学院全体の代表である理事長および東京研究所長、狩野は京都研究所長にそれぞれ就任した。東西両研究所の運営はそれぞれ東京・京都の両帝国大学の関係者が担当したが、東京・京都では若干の差異があった。すなわち、東京では著名な学者である評議員が研究員を兼ね、若手研究者は助手としてしか採用されなかったのに対し、京都では評議員は研究指導員とし、その下で中堅・若手の研究者が専任研究員として採用され、研究者の育成に重点をおく体制がとられていた、とされる。研究資料としての図書の整備は、東京研究所は1929年10月に浙江青田の人で上海の蔵書家徐則恂(字は允中、1874年 - 1930年)の東海蔵書楼蔵書約40,700冊を、京都研究所は1929年8月に江蘇武進の人で天津の蔵書家陶湘(字は蘭泉、1871年 - 1940年)の蔵書約27,000冊を一括購入することで、その基礎を据えた。 東西研究所の分離独立1937年、日中全面戦争が開始されると、政府は従来の文献学的な中国文化研究に加え、より時局的要請に沿った現状分析研究を求めるようになった。管掌官庁である外務省は、東京・京都の研究所にそれぞれ新たな研究方針と、関係の深い東京・京都両帝大への移管を受け入れるかどうかを打診したが、東京研究所は東大移管を拒否し、新たに現状分析的研究を進める方針を受容し、「近世法政経済部」を新設した。これに対し、古典学的研究に固執する京都研究所はあくまでこの方針を拒否し、外務省から京大への移管を希望した。この結果両研究所を一組織にまとめることが困難と判断した外務省は両研究所の分離独立を決定し、1938年それまでの東方文化学院は解体され東京研究所は(新)東方文化学院、京都研究所は東方文化研究所に改編された。 京都の東方文化研究所は京大移管を強く望み折衝を重ねたが、研究領域の重複する京大(旧)人文科学研究所が1939年に新設されたことで京大内に組織的受け皿がなくなり、この時点で統合は実現しなかった。東大移管を拒否した東方文化学院でも、1941年にやはり研究領域の重なる東京大学東洋文化研究所(東文研)が発足すると研究者の一本釣りが始まり所員の東文研移籍が続いた。東方文化事業自体が外務省文化事業部から新設の興亜院、次いで大東亜省に移管されると、学院の予算は義和団の乱賠償金ではなく国家予算から拠出されることになり、不要不急の事業として大幅に削減され研究活動の維持も困難になった。また、1942年、東方文化学院研究員の宇佐美誠次郎が治安維持法違反容疑で逮捕された事件は学院に強い衝撃を与えた。学院は即座に宇佐美を追放処分とし、いっそう国策に協力することで維持を図ったとされる。京都の東方文化研究所では、国策研究機関である東亜研究所の委託事業受け入れなどを余儀なくされながらも、極力従来の古典研究中心の研究方針を守ろうとしたという。 終焉第二次世界大戦後、各研究所の改組が行われ、東京の東方文化学院は1948年に廃止の上、東大東文研(所長は辻直四郎)に吸収され組織的には消滅した。一方京都の東方文化研究所は、1949年京都大学(旧)人文科学研究所・西洋文化研究所との対等合併で新たな京都大学人文科学研究所(人文研)が設立された際、人文研の東方部に改編され、附属施設として東洋学文献センターが設置された(現在東アジア人文情報学研究センター(人情(じんじょう)研)に改組)。 なお、「東方文化学院は東大東文研と京大人文研の前身」とする一般的見解は、旧京都研究所を前身とする東方文化研究所が(新)京大人文研に組織まるごと統合された(それゆえ研究所の正史たる『人文科学研究所五十年』では東方文化学院(京都研究所)・東方文化研究所を現在の人文研の前身の一つとし、それらの沿革に言及している)という点を考えるならば、京都については正しいが、東京の東方文化学院が既設の東大東文研に吸収された際に施設も人員も完全に移行したわけではなかったため、東京については正確な言い方ではない。 年表
事業学院の主な事業は東洋文化に関する文献史料の蒐集、学術研究の報告であり、研究成果は報告書として刊行された。比較的短い論文を発表するための紀要誌として1931年『東方学報』が創刊され、東京・京都それぞれ独立した分冊が刊行された。このうち『東方学報 東京』は1944年をもって中絶したが、『東方学報 京都』は京大人文研に継承され、現在も刊行を継続している。これに加え、中国の古典典籍を「東方文化叢書」として復刻刊行する古書複製事業も行われていた(主任は荻野仲三郎)が、1938年の東西研究所の分離独立に伴い打ち切られた。 分離後の(新)東方文化学院で新設された「近世法制経済部」は中国の現状分析を中心とし、以降この部門の研究員として植田捷雄・宇佐美誠次郎・高橋勇治ら現代的な地域研究を志向する若手が専任研究員として採用され、当初の意図は措き、結果においては戦後活躍する現代中国研究者が育成されることになった。 施設とその現状大塚に所在していた東方文化学院の施設(関野貞の案、内田祥三の設計により東京研究所として建造された。唐招提寺を模して造られたという)は、そのまま東大東文研に継承・使用され、一部は外務省研修所としても利用された。その後、東文研が1967年東大本郷キャンパス内の現在地に移転し、更に1995年に外務省研修所も郊外の相模原に移転したため、土地と建物は民間に売却する予定となった。しかし、建物の文化的価値などから保存運動が始まり、始め東京大学に購入を要請したがそれは叶わず、近隣にキャンパスを持つ拓殖大学が購入することとなった。現在は、拓殖大学国際教育会館として利用されている。なお現在東大東文研正面玄関の前にある一対の獅子像は、旧東方文化学院から移設されたものである。 一方、北白川に所在していた東方文化研究所の施設(1930年京都研究所として建造された)もまた、京大人文研によってそのまま使用された。当初、北白川の施設は人文研本館とされたが、1975年京大本部キャンパス近くの東一条に新しく本館が建築されたためこれ以降「分館」と改称され主として東方部および東洋学文献センターが使用、機構改編を経て、現在は先述の人情研が使用している。スパニッシュ様式が特徴的な同所屋は、濱田耕作の案、武田五一・東畑謙三の設計によるもので国の登録有形文化財に登録されている。 所員東西両研究所の分離以前の学院理事長(学院全体の代表者)は服部宇之吉(1929年4月 - 1938年3月)。理事は宇野哲人・狩野直喜・濱田耕作・羽田亨など。 東京研究所((新)東方文化学院も含む)
京都研究所(東方文化研究所も含む)
関連文献
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