松田正俊
松田 正俊(まつだ まさとし、1980年9月4日 - )は、千葉県千葉市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(FW)。 来歴選手時代プロ入りまで1996年に船橋市立船橋高等学校に進学し、3年時には同期の西紀寛と共にインターハイを制し、さらに千葉県選抜として国体で優勝を果たした。同年の全国高等学校サッカー選手権大会千葉県大会では玉田圭司を擁した習志野高校に敗れた。市立船橋の同期には他に岩佐潤(バスケットボール部)、高橋美佳子(吹奏楽部)がいる。 FC東京→横浜FC高校卒業後の1999年、J2・FC東京に加入。シーズン途中にJFL・横浜FCに期限付き移籍し、リーグ優勝に貢献した。 FC東京→ヴァンフォーレ甲府翌2000年にFC東京に復帰したが、J1に昇格したチームではアマラオ・ツゥットの2トップが定着したために出場機会は限られた。2001年はシーズン開幕前から好調を維持し[1]、持ち前の強烈なシュートと豪快なヘディングを武器に[1]練習試合で得点を量産したが先発には食い込めず、同年9月よりJ2・ヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍し[4]、苦戦の続いていた甲府の主力の一角として活躍した[1]。 モンテディオ山形甲府から復帰後の2002年もFC東京では出場機会を得られず、2003年、柱谷幸一が監督を務めるJ2・モンテディオ山形へ移籍[5][3]。好ペースで得点を挙げていたが[6][7]、同年5月のJ2第10節甲府戦で左膝前十字靭帯及び内側側副靱帯を断裂し[8]、長期のリハビリとコンディション調整を強いられた。翌2004年9月の水戸戦で得点を挙げ復調の兆しを見せたが[7]、この年限りで山形を退団。 京都パープルサンガ2005年、J2・京都パープルサンガへ移籍[9]。松田の苦闘を知る柱谷の下でのプレーとなり[10]、限られた出場時間の中で8得点を挙げ、京都のJ1昇格に貢献した。2006年限りで契約満了により退団[11]。 TDKサッカー部2007年、JFL・TDKサッカー部(現 ブラウブリッツ秋田)に移籍。チームトップ(リーグ3位)の18得点を記録[12]。同年の天皇杯では、4回戦で古巣・FC東京から得点を挙げ、相手サポーターからも声援を送られた[13]。 栃木SC2008年に柱谷が監督を務めていたJFL・栃木SCに移籍。J2昇格を目指し、昇格が懸かったJFL後期第15節アルテ高崎戦ではハットトリックを挙げて勝利に貢献した[14][15]。 TDKサッカー部/ブラウブリッツ秋田2009年9月、栃木SCから期限付き移籍する形で、TDKに復帰[16]。シーズン途中の加入ながらチームトップタイの7得点を記録し[17]、低迷していたチームを中位へ引き上げた。2010年より秋田(TDKから改称)へ完全移籍[18]。同年のJFLベストイレブン、2011年には同リーグの得点王(20得点)を獲得した。主将としてもチームを牽引し[19][20]、「ミスターブラウブリッツ[21]」「雷神[22]」「キングオブブラウブリッツ[20]」といった呼び名で慕われた。2013年11月17日のJFL第33節滋賀戦でJFL通算200試合出場と100得点を達成し[20]、同年をもって現役を引退[2]。 指導者時代引退した松田は、2014年より秋田の育成コーチ兼アンバサダーに就任した[23]。2015年1月、秋田のヘッドコーチに就任した[24]。2016年は再び育成年代のU-14のコーチを務めた[25]。 2017年、横山雄次監督率いる古巣栃木SCのヘッドコーチに就任[25][26]。横山との共闘は2012年の秋田在籍時以来となった。同年、A級ジェネラルライセンス取得[27]。2018年より栃木SCのトップチームを離れ、アカデミーのU-15カテゴリーのコーチとなり[28]、2022年からはU-12チームの監督を務めている。 2024年2月6日、栃木シティFCのU-15監督に就任した[29]。 所属クラブ
個人成績
タイトル
指導歴脚注
出典
関連項目外部リンク
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