林家木久扇
林家 木久扇(はやしや きくおう、1937年〈昭和12年〉10月19日 - )は、日本の落語家、漫画家、画家、実業家。 血液型はA型、出囃子は「宮さん宮さん」、定紋は林家彦六一門の定紋である「中陰光琳蔦」。前名の初代林家木久蔵[要曖昧さ回避]としても知られる。 来歴・人物1937年10月19日、東京市日本橋区久松町の雑貨問屋に生まれる。比較的裕福な幼少期を過ごしたが、太平洋戦争による使用人の出征、東京大空襲による店の全焼、自身は青森県への疎開など被害に巻き込まれ、家族が離散。小学4年生の時から新聞配達をして家計を支えた。自分を支える経済、お金の入ってくる道を発見工夫して上昇していくことが大切で、「金はあるに越したことはない」という考えを持つに至る。そのためか貧乏を嫌い、終生長屋暮らしだった師匠彦六を「清貧に甘んじ人情に厚い人」と評する一方で「噺家は貧乏でもいいという姿勢」を欠点とし、「噺の中に出てくる人物と同色の暮らし向きをして、若手落語家たちにあれが老成大家の未来像なんだと植えつけてしまった(例として、落語会のギャラを自分の分だけでなく、弟子達の分まで半分相手に返してしまう行動など)」と記している。 自己紹介は、「スーパースターの林家木久扇でございます」で始まる[2][3]。 「現在の多くの若い落語家は経済観念が欠落している」とも批判している。師匠彦六の天敵でありインタビュー依頼電話に「私が喋るのは只じゃござんせん」とプロ意識を持っていた6代目三遊亭圓生、豪邸を建てた3代目古今亭志ん朝、師匠彦六と同じ長屋住まいだが「横丁の大金持ち」とあだ名されるほど貯金をして、脳溢血で倒れた際入院費・治療代を全額貯金を払って亡くなり、一方師匠彦六の友人であり亡くなる直前まで金のことを考えていた9代目桂文治を賞賛している[4]。 木久扇が圓生の考えに賛同する部分は特に経済観念であり、噺家活動の方向性については「落語は古典でなくては、のかたまり」「指導力のある人だが、一方的」と感じていたと『ぼくの人生落語だよ』で記している。また、志ん朝の父・5代目古今亭志ん生は対極的に“貧乏長屋”の代名詞として、今なお志ん生一門中心に噺家の小咄のネタとなっている。 木久扇のライバルは“先月の売り上げ”である(ラーメンだけでなく、噺家・作家としての売り上げも含む[5])。 多芸多趣味であることもあり、落語界の外に多くの知己を持っている。大御所になってからも、絵の師匠に弟子入りしたりしている。 私生活では、常に帽子を目深にかぶり、絶対に有名人であることを悟られないように用心深く過ごしている。弟子もつけないことが多い。清水崑からは門弟中に「ひとり高く、孤高であれ、お前さん群れなさんなよ[4]」とよく励まされており、その言葉の影響もある模様。 楽屋での人間関係は孤立気味であり、会話はもちろん視線を合わすことも避けられている[6]。これは嫌われているのではなく、不意に変なもうけ話をメンバーに持ち込むため、他のメンバーが絡みづらいと感じているからだとされる[6]。6代目三遊亭円楽は東京スポーツからのインタビューで「たまたま目が合ったら、近づいてきて、“いい木材を大量に仕入れたからそれを彫り物にして売ろうよ”と持ちかけられた」と暴露した。また、過去に象を輸入して観光料で儲けようとしたが、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)に引っかかって大儲けどころか、象が輸入されずに大損したこともある。この時の象は木久象とまで名前をつけていた。とはいえ、若い時分には、師匠連にお茶を出すのは大変だ、ということで二口急須を発明して商品化されるなど、成功した事例もある。 本人の著書[要文献特定詳細情報]によれば、1976年に(本に1967年とあるのは誤り)腸閉塞症に罹り、生存率60%といわれる手術を成功させている。この時、臨死体験に近いことを体験した。父親は胃癌で死亡したが、2000年に本人も胃癌に罹り、胃を3分の2切除している。ダブル襲名の口上で、きくお改め木久蔵は、この7年前(2000年)に木久扇がガンを患ったことに触れており、「(木久扇が)元気なうちに真打昇進できて良かった。これでいつ天国に行ってもらってもいい」と述べている。 赤塚不二夫やタモリとは長く親交があり、彼らの仕事場や宴会にはよく顔を出している。また横山やすしとは親友の間柄であり、やすしを全国ラーメン党の副会長兼大阪支部長に任命したことがある。 3代目三木助死後、三木助の死後まで残っていた門弟達は、三木助と同じ筋である8代目桂文楽、5代目柳家小さんを前に次の新たな師匠を決めさせられ、木久蔵(当時・木久男)以外の門弟は皆小さんを選択した。それにもかかわらず8代目林家正蔵一門へ移籍したのは、三木助の病床時に林家正蔵が見舞金を贈ってきたことに対し、「これが一番嬉しい」と三木助の妻が言っていたため。当時の木久男はまだ前座になりたてで、落語界の人間関係をよく理解していなかったと語る[7]。 自身の選定により、
ということをメリットに考えた。しかし、正蔵が道具噺をするということまでは実際その準備にかりだされるまで知らず、道具を部屋から引っ張り出し、運び出し、大道具の設置をしなくてはならず苦心した。 本人の著書によれば、約1年半、前座として新師匠彦六宅で修行をする。そのため、彦六の物真似が出来るようになった。笑点の大喜利など随所で披露する他、現在では「林家彦六伝」という新作落語まで作った。反面、彦六一門は師匠彦六自身も含めて本寸法であっても極めて地味な芸風で、テレビで売れるタレント落語家たちとは対極の位置にいたことに対し、『笑点』で活躍する木久蔵はまさしく売れっ子タレントの一人であり、また、預かり弟子であることと、テレビでの活躍などでほとんど長屋に顔を出す機会がなかったこともあってか、彦六は彼への強い印象は持っていなかった(破門宣告も木久蔵に対し37回下しているものの、門弟全員が似たような数の宣告を受けていて、弟弟子の林家九蔵(後の三遊亭好楽)も23回破門宣告を受けている)(林家彦六の性格参照)。 このことについては、『笑点』の鶴亀大喜利で三波伸介が木久蔵について師匠彦六に質問したのに対し「あいつはなんだかわからねえ」と答えており(『笑芸人』でも木久蔵自ら語っている)、弟弟子時代からの付き合いで圓楽一門へ移籍した今もなお、笑点メンバーとして付き合いの長い三遊亭好楽(当時:林家九蔵)においても、入門当初から売れっ子だった兄弟子であり、稽古を共にした記憶が無く(「東京かわら版」インタビュー参照)、笑点のメンバーになるまでほとんど面識がなかった模様(このインタビューでも明示されているが、九蔵を笑点に誘ったのは5代目圓楽だった)。 弟弟子林家正雀も、著書で師匠彦六の自宅稲荷町[要曖昧さ回避]に通ってくる兄弟子の記録として、「3代目八光亭春輔、3代目桂藤兵衛、林家時蔵が毎日、九蔵が時おり、5代目はやし家林蔵はよく来た」とだけ記している。 日本橋出身であることを誇りに思い、上を走る首都高速道路を地下に移設してほしいと、時々笑点の挨拶で訴えている。 『クジラ食文化を守る会』の副会長を務めている事でも分かるように、捕鯨文化の維持を主張しており、『正論』2018年5月号では「食べていい生物といけない生物 決めるのは誰?」というタイトルで、『ビハインド・ザ・コーヴ 〜捕鯨問題の謎に迫る〜』の監督を務めた八木景子との対談が掲載された[8]。 1985年8月12日、当時の笑点メンバー(5代目三遊亭圓楽、桂歌丸、林家こん平、三遊亭小遊三、三遊亭楽太郎(後の6代目三遊亭円楽)、古今亭朝次(現在は7代目桂才賀)、山田隆夫)とともに翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りの予定だったが、当初予約した徳島空港行きの飛行機が遅延した上に同空港の悪天候により条件運行となった。そのため、徳島行きの便の1つ後に出発する日本航空123便[注釈 2]に搭乗し、神戸港から船で移動する案が出された[注釈 3]。しかし、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したために、当初の予定通り徳島行きの便に搭乗し、123便の墜落事故を逃れた。墜落事故については、徳島空港到着後宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという[9]。 大喜利メンバーとして『笑点』には1967年10月放送の「若手大喜利」で初出演。1969年11月から出演し、2024年3月まで約55年間出演していた。これは歴代大喜利メンバーの中で最も長い出演期間であった。 大喜利メンバーに入った当初、特徴が無かった木久扇は自分をどうキャラ付けしようか迷っていたが、ある日TVで流れていた嵐寛寿郎の出演するチャンバラ映画を見たのを思い出し、大喜利の回答で鞍馬天狗になりきって「杉作、日本の夜明けは近い」と話したら、これが見事にハマった。そこから目覚めて、時代劇言葉で返すようになって、自身のキャラクターが確立していった。しかし実は鞍馬天狗には原作にも映画にも「杉作……」などというフレーズは出て来ず、木久扇の創作である。それがのちに、木久扇が扮する鞍馬天狗でCMが作られ、賞を受けた[10]。 大喜利で歌を歌うのも木久扇の特徴である。昔からミュージカルが好きであった木久扇は、植木等や榎本健一のようにセリフの合間に歌を盛り込んだら会場も盛り上がるだろうと考え、自身以前にはいなかった歌を歌う大喜利メンバーとなった[11]。 木久扇の持ちネタの落語『林家彦六伝(明るい選挙)』にも出て来るが、木久扇の『笑点』起用は初代司会者七代目立川談志が推薦したことが大きく影響している(現在のキャラクター「与太郎」についても同様である)。その一方、時折与太郎キャラと大きく異なる回答(社会風刺・反戦・メンバー罵倒など)を出して驚かせることもあり、先述の司会者によるフォローも、こうした回答を受けてから発せられることが多かった。自身が襲名の後見を勤めた二代目林家三平が加入後から降板までの間は三平に対して説教やダメ出しをする事が多かった。 色紋付の復活当初は「一番目立つ色」という理由で赤い色紋付を着用していたが、1年ほどですぐに黄色に変わり、そのまま現在まで至る。このため、5代目司会者の歌丸や三遊亭好楽などからは「黄色い人」、林家こん平からは「Yellow」と呼ばれたり、解答席で隣の春風亭昇太が問題の解答にダジャレで答えてスベった際に、「横にいると黄色いのが移る」と語っている。 回答の多くはシンプルな駄洒落が多く、そのシンプルさ故に観客や司会者から先に答えを言われて座布団を没収されてしまう事も多い。その中でも番組内で多用している「やぁねぇ」[11] の駄洒落から、屋根の発展に貢献したとして2004年(平成16年)に神奈川県瓦屋屋根工業連合会の名誉総裁に任命された。 時代劇への造詣の深さから、嵐寛寿郎が『笑点』の「伸介のなんでもコーナー」(1975年7月6日放送)にゲスト出演した際に共演している。また、演芸コーナーで時代劇コントグループカンカラが出演する場合、ゲストで出演することもある。 「いやんばか〜ん・・・・」は、1978年4月12日にレコード化(原曲はジャズナンバーの「セントルイス・ブルース」)されており、振付師の真島茂樹が考案したこの歌への新しい振り付けを2005年10月22日放送の「BS笑点」にて初披露、2006年1月1日放送の「大笑点」では「いやん、ばか〜ん、ツー」と紹介された。 50年間メンバーとして出演していることから、それに触れる際に「司会者を5人(初代司会者立川談志、2代目司会者前田武彦、3代目司会者三波伸介、4代目司会者五代目三遊亭圓楽、5代目司会者桂歌丸)送っている」とネタにする事が多い[注釈 4]。 80代を迎えた辺りから「高齢になり、家への帰り道が分からない」といった認知症キャラクターも演じることもある。2021年に大腿骨を骨折し復帰後は、座布団には座らずに座布団を前に置く形で椅子に着席したうえで出演している。 1986年から長年3枠に座っていたが、2022年に桂宮治が加入したのに伴い、既存メンバーの席替えが30年振りに行われ、木久扇は4枠に移動した。また、1992年から長年2枠で木久扇の隣に座っていた弟弟子の好楽も5枠に移動したため、引き続き好楽とは隣同士で座ることになった。 少年時代に東京大空襲を経験している事もあり、世界平和を願う回答をする事もしばしばある。 2023年8月27日、毎年恒例の『24時間テレビ』内の「笑点チャリティー大喜利」において、2024年3月をもって『笑点』を卒業(勇退)することを発表した。コメントでは「芸というものは次の世代にバトンタッチしなければいけません。私の座布団も芸も新しい人にバトンタッチいたします。今日の24時間テレビ、『明日のために今日をつなごう』というテーマで、私は背中を押されたわけであります」と述べ、後進へ席を譲ることを卒業の理由としている[12]。そして2024年3月31日を以て大喜利メンバーを卒業、番組の最後に「また来週」と言い残し、翌週4月7日から立川晴の輔に交代するも、前週の予告通り、同放送回にも晴の輔の紹介の為に出演、更にその翌週4月14日の放送にも、所属する落語協会の真打昇進披露口上の挨拶に出演、また同年1月1日から番組のオープニングの作画も担当しており、今後も『笑点』に関わっていくとしている。 余談だが、彼の下で育った数と同じくらい、廃業をした弟子の数も多く、長年『笑点』で見せていたおバカキャラ(ボケ老人芸など)からは想像できない芸に厳しい一面もある。息子の二代目木久蔵は『笑点』に出演していた父を見て、「これなら自分でも(落語家に)なれる」と思い、落語家になろうと決意したという。 YouTuberとしてYouTuberとしてデビューしたのは一部報道によると、HIKAKINの年収が数十億円に上るという噂を聞いて俄然やる気になったためという[13]。動画投稿のノウハウについてはHIKAKINから教えを得ており(YouTuber名のKIKUKINもあやかったもの)、その様子は2020年1月1日放送の「笑点 正月スペシャル」でも放送された。 2021年3月をもって、YouTubeでの活動を休止。 改名歴前座名・桂木久男落語芸術協会(当時は日本芸術協会)から落語協会に移籍した3代目桂三木助(芝浜の三木助)の直弟子である。3代目三木助は弟子にはほぼ全員に「木久」の字をつけていた。彼も例外ではなく、「木久男」という名をもらった。ちなみに木久扇の息子の2代目木久蔵の前名である「きくお」は、木久扇が最初に名乗ったこの名前から取られたものである。 林家木久蔵3代目桂三木助没後、三木助の未亡人(女将さん)に連れられて8代目林家正蔵(後の彦六)宅へ行き、8代目林家正蔵門下に移籍した際、既に新しい芸名が用意されていた。正蔵は芸名の名付けについて「三木助の弟子だったから「木」と言う字は残そう。私は正蔵だから「蔵」と言う字をあげる。永く続くように(永く久しいから)「久」と言う字で繋いだらどうだ」と語り、 「林家木久蔵」と新たな芸名を与えられた。本人は「二人の師匠の名前が入っているから凄く誇りにしている」と語っていた。 林家木久蔵を名乗り続けた理由彦六が8代目として名乗っていた「林家正蔵」という名は、7代目林家正蔵没後、7代目の子息・初代三平(海老名家)から一代限りという約束で借りたものなので、8代目林家正蔵はその義理から、自分の一門で「林家」の亭号を増やさないように、弟子が真打になると全員春風亭・橘家など「林家」以外の名に改名させることとした。 ただし、木久蔵は三平に気に入られていたことから、真打になっても「林家」の名を変えずに済んだ(「笑点」での木久蔵の真打昇進披露の時には三平、8代目正蔵、9代目桂文治と共に高座に上がった)。林家三平没後は、林家九蔵(同名で真打昇進してから彦六没後1年後に五代目圓楽一門に移り三遊亭好楽に改名)、林家時蔵、林家正雀は、「林家」亭号の変更をしない方針となった。 こうした経緯もあってか、初代三平の長男・こぶ平の「9代目正蔵」襲名および次男・いっ平の「2代目三平」襲名に際しては、「笑点」の共演者でもあり多発性硬化症により休養を余儀なくされ、高座を離れていた二人の師匠・こん平の代理として後見を務めている。 林家木久蔵から林家木久扇へ実子も落語家であり、上述のように、自らの初名「桂木久男」に因み、「林家きくお」と名づけた。 2007年(平成19年)9月の真打昇進にあたり、きくお(当時)が「有名になりたい」と言ったため、木久蔵をきくおに譲ることで、きくおの知名度向上を図る事とした。そして、初代木久蔵の新しい名前を演芸番組「笑点」の企画として新しい芸名を公募。『夕刊フジ』は木久扇を「アイデアマン」と評した。 このプランは『笑点』が開いた2006年10月19日の記者会見で明らかにされた。新芸名公募の募集を行った日本テレビへの応募総数は30377通に達した[注釈 5]。2007年5月6日放送の『笑点』で新しい名前を発表。公募開始前から「林家木久翁(はやしやきくおう)」が候補とされていたが、結果としては読みが同じ「林家 木久扇(はやしや きくおう)」という名となった。音響の専門家から「お」で終わる名前をアドバイスされたという。結果、これまでの「木久ちゃん」の愛称までは改称されていない[注釈 6]。 その他に最終候補に残った名前は「木久彦(きくひこ)」[注釈 7]・「木久左(きくざ)」・「木久茶(きくさ)」・「木久寿(きくじゅ)」だった。 漢字は、本人自身が林家 木久扇という字を選んだ。なお、この案で応募したのは2名。「おうぎ」という訓読みを縮めたものと思われる。このためか、立川談志は自身の番組「談志・陳平の言いたい放だい」で、この報道を聞いてすぐに「『オウ』なんて読みはねーよ」というコメントを残している。 2007年4月28日の記者会見では、「落語は聴き込んでいくと面白く奥が深い。が、入り口で誰かが宣伝マンをやらないと中に入ってきてくれない。その役を私がやってきたが、それは変わらない」と話し、従来通りのキャラをやりつづけることを明らかにした。 恩人木久扇は三人の恩人を挙げている。
役職
経歴落語家として
笑点
自分
弟子入り
芸能
闘病
親子ダブル襲名
落語協会の発表では、2007年9月21日に正式襲名(「木久扇」自体は初代なので、厳密な意味での「襲名」にはあたらない)となる。ただし、出演しているJARO(日本広告審査機構)のCMは同年9月1日以降「木久扇」として出演している。笑点には、同年9月23日放送の「ダブル襲名披露口上」以降、「木久扇」として出演している。
受賞歴ギャグ・持ちネタ笑点での持ちネタ笑点の大喜利で披露した場合、大抵座布団を没収されたり他のメンバー(主に歌丸や6代目円楽)から呆れたリアクションを取られたりするものも多い。自身の回答が滑った事を察した際には「ウケないね」などと言って、自ら座布団を返上するケースもある。
など。
ものまねレパートリー
高座での持ちネタ特に声帯模写や物真似芸を多く取り入れた創作落語の「彦六伝」「昭和芸能史」のほか、古典では主に下記のネタを演じる。高齢となった近年は、前出の創作落語のショートバージョンである「明るい選挙」を演じることが殆どである。 メディア出演番組過去
著書林家木久蔵 名義
林家木久扇 名義
レコード
映画
ドラマ
CD
DVD
その他作品
ラジオ
CM・広告
関連書籍
趣味
一門弟子真打
二ツ目廃業
移籍
弟子の名前実子の前名の「きくお」を含め、直弟子には平仮名混じりの高座名をつけることが多い傾向にある。笑点ではそれをネタにされることもあり、「きくおが平仮名なのは、親父の木久蔵(当時)が漢字が読めないからだ」、と言われたこともある。なお、自身でも「私にとってKYは『空気読めない』ではなく『漢字読めない』である」とネタにすることもある。 ただし、林家こん平の弟子についても「たい平」「いっ平」のような平仮名混じりの高座名をつけている(これは、こん平の師匠である初代三平の流れを汲むものだが、たい平、いっ平はこん平の直弟子である)ことから、木久扇に限ったことではないが、ネタにされるのは木久扇ぐらいである。 関連項目
脚注注釈
出典
外部リンク
|