正力 松太郎 (しょうりき まつたろう、1885年 〈明治 18年〉4月11日 - 1969年 〈昭和 44年〉10月9日 [ 3] )は、日本 の実業家、政治家。読売新聞社 社主 、日本テレビ放送網 代表取締役社長、讀賣テレビ放送 会長、日本武道館 会長などを歴任した。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖 」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。
読売ジャイアンツ (巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球 の発展に貢献したために「プロ野球の父 」と呼ばれる。日本テレビ を創立し、テレビ の普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父 」と呼ばれる。また、原子力発電 の推進にも貢献したために「原子力の父 」とも呼ばれる[ 4] 。
1955年 (昭和30年)から1969年 (昭和44年)まで衆議院議員 (自民党 に所属)を務めた。政界 でも一定の影響力があった。
駒澤大学 が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年 )の式典において、最初の名誉博士 号が授与された。
人物
1885年 (明治18年)に富山県 射水郡 枇杷首村(現在の射水市 )生まれ。1911年 に東京帝国大学 (法学部)卒業で旧内務省 に入省。1923年 12月に虎ノ門事件 が発生、当時警視庁 警務部長 であった正力は警視総監 の湯浅倉平 とともに引責辞職[ 5] 。翌1924年 2月、後藤新平 の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった読売は、1941年 に発行部数で朝日新聞 ・毎日新聞 を抜いて東日本最大の新聞となる。同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた[ 5] 。1940年 の開戦時は大政翼賛会 総務であったために、1945年 12月2日 、連合国軍最高司令官総司令部 は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[ 6] 。A級戦犯 の容疑で巣鴨拘置所 に勾留され、後に不起訴となったが公職追放 処分を受けた。戦後は、MLB 選手を日本に招聘して日米野球 を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局 (CIA)への協力(非公式の工作活動)を行っていたことが、アメリカ合衆国 で保管されている公文書により判明している[ 7] [ 8] [ 9] [ 10] [ 11] [ 12] 。また、1960年代 に衆議院議員 (自民党 に所属)になり自由民主党総裁 の座も狙っていた。読売新聞社 の部下だった渡邉恒雄 を中曽根康弘 (当時、自民党の衆議院議員)との連絡役にしていた[ 13] 。CIAエージェントとしてのコードネームはPODAM 。
略年譜
左から吉田茂 首相、堤操 (歌人)、正力、堤康次郎 (昭和29年 7月衆議院議長就任レセプション)
1955年
『キネマ旬報 』1964年1月新春特別号より
内務官僚時代
警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)
警視庁官房主事として1923年 (大正12年)6月の日本共産党 に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察 などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災 の際、社会主義者 の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。その際、朝鮮人の暴動説を新聞記者を通じて流布させ、関東大震災朝鮮人虐殺事件 の一因を作った[ 33] 。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件 )の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。
刑事畑においては、島倉事件 (のちに甲賀三郎 が『支倉事件』の題名で小説化した)[ 注釈 6] の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件 においては自首を仲介した。
新聞経営
1924年 (大正13年)、番町会グループである郷誠之助 、藤原銀次郎 ら財界人の斡旋と、帝都復興院 総裁だった後藤新平 の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(後の読売新聞東京本社 )の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
戦前は報知新聞社 の販売局長だった務臺光雄 を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪 資本の東京朝日新聞 ・東京日日新聞 などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞 の全国進出を狙って九州日報 など日本各地の地方紙 を買収して経営参加に成功するも、新聞統制 によって計画は頓挫した。
戦後、読売新聞の全国紙 計画が本格化し、1952年 (昭和27年)に大阪讀賣新聞社(後の読売新聞大阪本社 )を設立、念願の西日本 進出を果たした。以後、札幌 と正力のお膝元である高岡市 にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年 (昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州 に読売新聞西部本社 を設立、1ブロック紙 に過ぎなかった読売新聞を務臺との二人三脚で朝日 ・毎日 と肩を並べる全国紙に発展させた。
大リーグ招聘・球団結成
1934年 (昭和9年)、ベーブ・ルース 、ルー・ゲーリッグ らが参加した大リーグ 選抜チームを招聘した。大リーグ選抜チームは、日本で17試合を戦い、一試合当たりの観客数が6万5000人(大リーグでの平均動員数に匹敵)に達することも多かった。当時アマチュア野球 しか存在しなかった日本側でも、全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創設され、1936年 (昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、京都商業から慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治 を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も、沢村が中学卒であったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。
また、沢村を中退させたのと同様の手口でヴィクトル・スタルヒン を退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した[ 34] 。
旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、家庭の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦 への強制送還 とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている[ 35] 。
中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一 は著書[ 36] の中で断言している。
正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー )に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂 入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞 が贈られている。
戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞 と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグ とパ・リーグ に分かれることになる。ちなみに正力自身としては、当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であったが、日本プロ野球が実際に2リーグに分かれた際、読売(読売ジャイアンツ )はセ・リーグ、毎日(毎日オリオンズ )はパ・リーグの所属となった。
襲撃事件
1935年 (昭和10年)2月22日、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられた。傷は浅く頸動脈は外れており命に別状はなかったが、出血ははなはだしく輸血 が行われた。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説 を支持したこと、正力が大リーグを招聘して多額の利益を与えたこと[ 37] 、神宮球場 を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞 の幹部による指示があったとされた。襲撃の報を受けたベーブ・ルースは見舞いの電報を正力に送っている。
襲撃犯は懲役 5年の求刑 を受けたが、1935年(昭和10年)6月12日、東京刑事地方裁判所は「殺意は認められなかった」として殺人未遂を傷害罪 に更訂、懲役3年の判決を言い渡した[ 38] 。
テレビ放送事業
ラジオ民間放送で出遅れていた反省もあり、正力はテレビ放送では最初に動いた。電通 の吉田秀雄 のもとへテレビ放送について相談に行ったが、吉田は聞き役に回り、積極的な動きを示さなかったという。1951年 (昭和26年)10月、正力は電波監理委員会 へ「日本テレビ」の免許を申請する。翌1952年 (昭和27年)7月31日 、免許出願していた日本テレビ放送網 (以下、日テレ)に、日本のテレビジョン 放送局としては初となる予備免許 が交付された。
日テレは当初、東京を本部として札幌市 から鹿児島市 まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省 (当時)の見解により、やむなく関東地方 のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。
当時の日テレの放送機材はアメリカ合衆国 からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れた。一方、日本放送協会 (NHK)は、日テレより後に予備免許が下りたものの、ほとんどの機材を国産品としたため、1953年 (昭和28年)2月1日 に東京で日本初のテレビジョン放送(のちのNHK総合テレビジョン )を開始することになった。
同年5月15日 、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル ・リレー網計画」の説明会が行われた。ユニテル・リレー網はテレビに留まらないマルチメディア 事業であり、正力の懐刀柴田秀利 も、日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS(米軍戦略諜報局) 局員か、アメリカ中央情報局(CIA) スタッフか、ジャパン・ロビー かであった[ 注釈 7] 。
そして、NHKより半年遅れの8月28日 に日テレは日本初の民間放送 によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した[ 注釈 8] 。日テレは民間放送であることから、コマーシャル を収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー 獲得のため、東京都内を中心とした繁華街 、主要鉄道駅 、百貨店 、公園 など人の集まる場所に街頭テレビ を常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山 などが活躍したプロレス を始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。
1958年 (昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔 「東京タワー 」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社 鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿 に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年 (昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。そして、正力の死後の1970年 (昭和45年)11月10日 に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した[ 注釈 9] 。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービス が日本テレビゴルフガーデン を建設したが、1997年 (平成9年)12月、社有地が売却され、2012年 (平成24年)4月に新宿イーストサイドスクエア が建築されている。
日本テレビ放送網の役職と国会議員活動の関係
1952年10月28日 - 日本テレビ放送網 設立、代表取締役社長に就任。
1955年2月28日 - 第27回衆議院議員総選挙 に富山2区 から出馬、当選し衆議院議員 になる。
1955年11月22日 - 第3次鳩山一郎内閣 で北海道開発庁 長官に就任。日本テレビを離脱(社長辞任)。
1956年5月19日 - 科学技術庁 長官に就任。
1956年12月23日 - 北海道開発庁長官および科学技術庁長官を辞任。
1957年1月28日 - 日本テレビ放送網取締役に選任、日本テレビに復帰。
1957年2月6日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任。
1957年7月10日 - 第1次岸改造内閣 で国務大臣 に就任。日本テレビを離脱(会長辞任)。
1958年6月12日 - 国務大臣を辞任。
1958年7月10日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任、日本テレビに復帰(以後、死去まで役職固定)。
CIAの協力者としての活動
早稲田大学 教授の有馬哲夫 が、週刊新潮 2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後にアメリカ中央情報局 (CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局 によって公開された外交文書(メリーランド州 の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[ 40] 、その中でアメリカ対日協議会 の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。
米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦 体制のなか、日本に原子力を輸出するために作戦名‘KMCASHIR’という心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[ 23] 。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン (Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子 の娘・繁子と結婚し、東南アジア 、メキシコ でスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダである「平和のための原子力 」を大衆に浸透させるために、まずは正力と親しい柴田秀利 と接触した[ 22] 。
日本へのテレビ放送 の導入と原子力発電 の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネーム として「PODAM 」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「POJACPOT-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「PODALTON」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[ 41] [ 42] 。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利 は「POHALT」というコードネームを与えられた。
ベンジャミン・フルフォード の主張によると[ 注釈 10] 、正力をCIAに推薦したのは上院議員 カール・ムント であったという。なお、CIAは「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と評価しているとされる[ 44] 。
遺訓
正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。
巨人軍は常に紳士たれ
巨人軍は常に強くあれ
巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ
逗子邸宅
正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県 逗子市 の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。
1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロ が所有している。参加者は正力松太郎、正力亨 、清水与七郎 、川上哲治 、柴田勲 、広岡達朗 、関根潤三 、王貞治 、金田正一 、長嶋茂雄 。
正力松太郎の長女梅子(小林與三次 )の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。
2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。
2022年2月17日に国の登録有形文化財 に登録された。
外部リンク
家族・親族
正力家
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県 射水市 屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父 の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川 の氾濫を防いだ功による[ 14] 。江戸嘉永 年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[ 14] 。この功により、庄助は奉行 から苗字帯刀 を許された[ 14] 。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[ 14] 。正力家が土建請負 業として大をなしたのはそれからだった[ 14] 。
松太郎の両親はもともと本願寺 の熱心な門徒だった[ 45] 。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行 をかかさなかった[ 45] 。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった[ 45] 。
警視庁 の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監 の安楽兼道 が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県 出身)と見合い させ、結婚させたことでもわかる[ 46] 。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった[ 46] 。その長女も8歳で早世した[ 46] 。
1895年 (明治28年)4月生
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県 上総湊(後の富津市 )出身で精華女学校の和裁 教諭 の吉原波満と再婚した[ 47] 。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥 が、波満の実家と縁つづきという関係からだった[ 47] 。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった[ 47] 。
長男・亨
1918年 10月24日 - (2011-08-15 ) 2011年 8月15日 (92歳没)〔大正7年 - 平成23年〕
第2代讀賣社主、第2代球団オーナー
1936年 - 2019年 8月17日 (83歳没)〔昭和11年 - 令和元年〕
旧子爵 の元貴族院議員梅溪通虎 の次女[ 48]
妹は池坊専永 夫人の保子 である[ 48] 。
1963年 11月23日 生(61歳)
読売新聞グループ本社、株式所有3045株 4.97%。
1986年、日本テレビ放送網入社。2020年、CS日本(CS日テレ) 代表取締役社長。
読売新聞グループ本社、株式所有3029株 4.94%。
長女・梅子
1920年 - 2013年 7月30日 (93歳没)〔大正9年 - 平成25年〕
1913年 7月23日 - (1999-12-30 ) 1999年 12月30日 (86歳没)〔大正2年 - 平成11年〕
小林與三次 と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた[ 49] 。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった[ 49] 。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった[ 49] 。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない[ 49] 。結婚についてはジイさんから直接話があった[ 49] 」という。
小林與三次の実家について佐野眞一 によると「要塞 のような正力家の屋敷に比べ、庄川 の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった[ 14] 。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟 の船頭 に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という[ 14] 。
読売新聞グループ本社、株式所有2804株 4.58%。
1978年 4月15日 生(46歳)
正力松太郎逗子旧邸 の管理人兼居住者。
神奈川県 逗子市 生まれ。山手学院高等学校 、一橋大学 卒業。
2002年4月 - 2013年9月、リクルート に勤務。
2012年4月、個人事業「子ども原っぱ大学」企画運営。
2015年7月、HARAPPA株式会社 代表取締役「原っぱ大学ガクチョー」。
二女・利子
1923年 - 2007年 9月21日 (84歳没)〔大正12年 - 平成19年〕[ 50]
1918年 生
元三菱銀行 副頭取関根善作の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長小坂善之助 の孫 。
1949年 4月17日 生(75歳)
読売新聞グループ本社、株式所有4800株 7.83%。
1972年 、読売新聞社入社。
二男・武
1934年 - 1985年 5月(51歳没)〔昭和9年 - 昭和60年〕
日本テレビの副社長に就任した亨 が最初に断行したことは、同社の役員 だった弟の武を、傍系のよみうりランド に追放したことだった[ 51] 。正力から認知 され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか2年にすぎなかった[ 51] 。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年 (昭和60年)5月、51歳で死去した[ 51] 。熱望していた結婚 は結局叶わず、独身 のままの淋しい死だった[ 51] 。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどの酒 をのみつづけた[ 51] 。
正力を演じた俳優
評伝
長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社、1982年
波多野勝 『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎 の人生と正力松太郎』芙蓉書房出版、2013年
関連項目
脚注
注釈
^ 同級生に河合良成 (小松製作所 会長)、品川主計 (読売ジャイアンツ 代表)など
^ この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投 で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった
^ 巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり[ 16] 。
^ 河合、品川のほか、重光葵 (外相)、芦田均 (首相・外相)、石坂泰三 (経団連初代会長)などが同級。柔道 と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった[ 17]
^ 巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大イビキ だった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄 で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった[ 21]
^ 『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して1927年 に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった布施辰治 は「能勢弁護士」となっている。
^ OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の ジェイムズ・マーフィ である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として、日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた[ 39] 。
^ 日テレで初の地方完全系列局で、務臺光雄 が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。大阪市 )の初代会長も務めた。
^ 2013年 5月31日 に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は東京スカイツリー に再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。
^ カール・ムント米上院議員は、「VOA (ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義 の撲滅に乗り出した「プロパガンダ の雄」である。1951年 (昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、1953年 (昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した[ 43] 。
出典
^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。
^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/record/g-history/1/+ 2020年4月6日 閲覧。
^ “コトバンク「正力松太郎」” . https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E-79962
^ a b “正力松太郎(しょうりきまつたろう)とは ”. コトバンク . 2020年1月1日 閲覧。
^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ CIA Records - Name Files
^ Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts
^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井 . 徳間書店
^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹 . 新日本出版社
^ アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管)で正力とCIAの関係が明らかに週刊新潮 2006年 2月16日号参照
^ 杉山隆男 『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
^ a b c d e f g h i j k 佐野眞一 著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』19頁
^ 佐野眞一 著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』23頁
^ 嘉納治五郎師範の教え、講道館の殿堂、正力松太郎、講道館HP、閲覧2017年11月14日
^ 佐野眞一 著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』25頁
^ 記憶を刻む: 正力松太郎(震災当時・警視庁官房主事、後に読売新聞社主)
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。
^ 『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』517-518頁
^ a b CIA Operative Daniel Stanley Watson and CIA Informant Hidetoshi Shibata Richard Krooth, Morris Edelson, Hiroshi Fukurai共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年, p18-
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参考文献
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佐野眞一 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 』 文藝春秋 、1994年、文春文庫 (上・下)、2000年
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神松一三 『「日本テレビ放送網構想」と正力松太郎』 三重大学 出版会、2005年
有馬哲夫 『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 新潮社 、2006年、宝島社 ・文庫、2011年
有馬哲夫 『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』 新潮新書 、2008年
有馬哲夫 『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 平凡社新書 、2008年
有馬哲夫 『CIAと戦後日本』 平凡社 新書、2010年
Richard Krooth, Morris Edelson, 福来寛(カリフォルニア大学サンタクルーズ校教授)共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年
『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。
時事通信社 『時事年鑑 』《大正9年版》時事通信社、1920年。https://dl.ndl.go.jp/pid/3018570/1/394 。
外部リンク
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正力松太郎 に関連するカテゴリがあります。
歴代社長 歴代会長 日テレHD 社長
※1981年6月-1982年6月は社長職空席。
歴代社長1 2 歴代会長3
1 1957年2月(開局時) - 1980年5月の間は「代表取締役」という肩書のみで、名目上は社長職は設けられていなかった。2 1963年5月 - 1965年9月、1979年12月 - 1980年5月の間の(事実上の)社長職は空席。 3 2000年6月 - 2002年6月の間の会長職は空席。
本社 支社 現在の主な刊行物 過去の主な刊行物 系列新聞社 系列出版社 関連放送局3 広告 業関連
読売エージェンシー
読宣4
読売連合広告社4
読売情報開発
読売インフォメーションサービス
ヨミックス5
不動産 業・関連施設IT(情報技術)事業関連 人材派遣 業関連スポーツ ・レジャー 業関連教育 ・文化 ・社会福祉 事業映像制作事業 印刷 事業
読売プリントメディア
東海プリントメディア
読売大阪プリントメディア
メディアプレス瀬戸内
プリントメディア西部
引越運送会社 日本国外現地法人 歴史・事件 関連人物 関連項目
脚注
1 中核子会社6社(読売新聞社 、よみうり も参照)
2 福島県 の地方紙
3 主要な放送局のみ掲載。
4 大阪本社が出資。
5 北海道 を中心に折り込み広告事業、人材派遣事業を行う会社。
6 旧プランタン銀座 。マロニエゲート銀座2&3の運営を行っている。マロニエゲート銀座1は三菱地所プロパティマネジメント 運営。
7 現在の東京ヴェルディ1969 。
8 大阪本社が出資していた会社だが、2009年11月に清算された。
9 2010年3月31日解散。業務は読売エージェンシーへ移管。
10 作品がテレビ放映される場合は日本テレビと系列局のみにネットされる。
Category:読売グループ
再編前
再編後
省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
統合前
統合後
2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。
競技者表彰
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
90 真田重蔵 , 張本勲
91 牧野茂 , 筒井修 , 島岡吉郎
92 廣岡達朗 , 坪内道則 , 吉田義男
93 稲尾和久 , 村山実
94 王貞治 , 与那嶺要
95 杉浦忠 , 石井藤吉郎
96 藤田元司 , 衣笠祥雄
97 大杉勝男
99 中西太 , 広瀬叔功 , 古葉竹識 , 近藤貞雄
2000年代 プレーヤー
エキスパート
特別表彰
1950年代 1960年代
60 飛田忠順 , 河野安通志 , 桜井彌一郎
62 市岡忠男
64 宮原清
65 井上登 , 宮武三郎 , 景浦將
66 守山恒太郎
67 腰本寿
68 鈴木惣太郎 , 田邊宗英 , 小林一三
69 三宅大輔 , 田部武雄 , 森岡二朗 , 島田善介 , 有馬頼寧
1970年代
70 田村駒治郎 , 直木松太郎 , 中馬庚
71 小西得郎 , 水野利八
72 中野武二 , 太田茂
73 内海弘蔵 , 天野貞祐 , 広瀬謙三
74 野田誠三
76 小泉信三
77 森茂雄 , 西村幸生
78 伊丹安広 , 吉原正喜 , 岡田源三郎
79 平沼亮三 , 谷口五郎
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 新世紀