沈瑞麟
沈 瑞麟(しん ずいりん)は清末民初、満州国の政治家・外交官。字は硯裔。 事績清朝の挙人で、1902年(光緒28年)、ベルギー公使館の随員となる。1908年(光緒34年)、ドイツ公使館の代理二等参賛となり、万国保護文芸美術版権公会会員も兼任した。1909年(宣統1年)、清朝の外務部参議に異動する。その翌年、駐オーストリア公使に任じられた。[1][2] 1912年(民国元年)、中華民国成立後も引き続き駐オーストリア公使をつとめる。1917年(民国6年)8月、北京政府の対オーストリア宣戦と共に帰国した。1918年(民国7年)8月から1920年(民国9年)9月まで和約研究会副会長をつとめる。1921年(民国10年)、ワシントン会議中国代表団の顧問をつとめた。[1][2] 1922年(民国11年)1月、北京政府外交部次長に任じられた。1925年(民国14年)2月、臨時執政段祺瑞の下で外交総長に昇格し、関税特別会議委員長も兼任した。同年12月、許世英内閣の成立とともに、外交総長を辞任する。1927年(民国16年)6月、潘復内閣で内務総長に任命された(北京政府最後の内務総長である)。翌年には、督弁京都市政事宜も兼ねている。北京政府崩壊後の1929年(民国17年)、中東鉄路理事兼東北辺防司令長官公署参議となる。[1][2] 1932年(大同1年)に満州国が成立すると、北満鉄路首席理事に就任する。1933年(大同2年)、満州国執政府の中令に任じられた。愛新覚羅溥儀が皇帝に即位した1934年(康徳1年)3月、執政府中令から改組されて宮内府大臣となった。1935年(康徳2年)5月21日、参議府参議に移る[3]。1940年(康徳7年)5月、参議府参議から罷免され、祭祀府副総裁に転じた。[1][2] 1945年8月に満州国が崩壊すると、沈瑞麟はソ連軍に逮捕された。その後、シベリアへ護送されかけたが、体調不良のために北安省(北安県?)に留め置かれ、同年中に同地で死去した。享年72。[1] 注参考文献
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