油須木町
油須木町(ゆすきちょう[2])は、鹿児島県鹿児島市の町[3]。旧薩摩国日置郡郡山郷油須木村、日置郡郡山村大字油須木、日置郡郡山町大字油須木。郵便番号は891-1104[4]。人口は650人、世帯数は314世帯(2020年4月1日現在)[5]。 地理鹿児島市北西部、甲突川支流油須木川流域に位置し、八重山に連なる丘陵に囲まれた小盆地に水田が広がる農業地域である[6][7]。町域の北方には花尾町、南方には小山田町、東方には東俣町、西方には郡山町にそれぞれ接している。 町域の中央を南北に国道328号が通っており、南方には鹿児島県道40号伊集院蒲生溝辺線が東西に通っている。 河川
歴史油須木の成立と中世油須木という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国満家院のうちであった[8][9]。鎌倉時代には税所氏の支配地であったとされる[8]。南北朝時代になると守護島津氏の力が強まり建武4年(1337年)には比志島彦一に「満家院内 油須木四町」が与えられた[8]。 満家院は島津氏の支配下に入り、近世初頭に比志島氏が移封されるまでは比志島氏の支配に属していた[7][8]。比志島氏が移封されたのちは島津氏の直轄領となった[8]。文明17年(1485年)には町域の北部にある上ノ原にて島津忠廉が寡兵をもって村田肥前守経安の軍を破った古戦場がある[10][8]。 近代の油須木江戸時代には薩摩国日置郡郡山郷(外城)のうちであり[8]、村高は「旧高旧領取調帳」では431石余[8]、「三州御治世要覧」では459石余[10]、「郡山郷土史」では明治初年は433石余であった[8]。油須木村は200人規模の小さな村であり[11]、平民に比べ士族の人口が大きく上回っていた[11]。 寛文4年の「郡村高辻帳」には油須木村の名前が見えず、東俣村(現在の東俣町)に属していたとみられる[10]。江戸時代前期から中期ごろに東俣村から分村された[12]。 明治5年に大区小区制が公布され、これに伴い郡山郷の区域が第21大区となり油須木村は第4小区となった[13]。 町村制施行以降1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、それまで郡山郷を構成していた厚地村、東俣村、川田村、油須木村、郡山村、西俣村の6村を合併し郡山村が自治体として発足した[14]。それまでの油須木村は日置郡郡山村の大字「油須木」となった[8]。1956年(昭和31年)には郡山村が町制施行し郡山町となった[8]。 2004年(平成16年)11月1日に郡山町が吉田町、松元町、喜入町、桜島町と共に鹿児島市に編入された[15]。合併に際して設置された法定合併協議会である鹿児島地区合併協議会における協議によって、郡山町の区域の大字については「字の区域を廃止し、当該廃止された字の区域に相当する区域により新たに町の区域を設定し、その名称については表示案に基づき、各町の意向を尊重し合併までに調整するものとする」と協定された[16]。 前述の協定に基づいて、合併前の10月26日に鹿児島県の告示である「 町の区域の設定及び字の廃止」が鹿児島県公報に掲載された[3]。この告示の規定に基づき、それまでの大字油須木は廃止され、大字油須木の全域を以て新たに鹿児島市の町「油須木町」が設置された[17][18][3]。 人口以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
施設寺社小・中学校の学区市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[26]。
交通道路バス
参考資料
参考文献
座標: 北緯31度40分55.4秒 東経130度29分2.1秒 / 北緯31.682056度 東経130.483917度 |