1967年(35歳)1月、ル・アーブル文化会館で「雨月物語と日本の幻想世界」講演。10月19日、銅版画の長谷川潔を訪ね、一代記の書き取りはじめ、2年後『長谷川潔回想録』を完成。11月、外務省の委嘱により、ソ連体制下のルーマニアに派遣。ブカレスト国立美術館で開催中の「日本現代版画展」コミッショナーとして人民大学で「国際スタイルのかなた/日本現代版画展に寄す」を講演。ルイ・アラゴン選、ジョアン・ミロ等の7人の画家と7人の詩人の本『Paroles Peintes』に、詩「Le Tireur à l'arc ou le Commencement de l'Amour 」が選ばれる。後に詩集『Concerto』(思潮社、1994)に採録。
1970年(38歳)3月、フラテルニテ・モンディアル(Fraternité mondiale)協会主催講演「象徴と神話/日本文化の展開」が評価され、文芸誌『ヌーベル・リテレール』にて講演家として認められる。7月、フランス語圏国際誌『フランコフォーニー』(la Francophonie) に、評論「アンドレ・マルローと日本」を掲載。後にマルロー研究誌『マルロー・メランジュ』(1972) に採録。10月、ついに面識なく終わった三島由紀夫から献辞つきの小説『豊穣の海』が送られてくる。その当時の三島への想いを『パリ憂国忌』(日本教文社)に記す。12月7−13日『フィガロ (新聞)』(Le Figaro)の三島由紀夫追悼特集に「ある歌舞伎ヒーローのパラドックス」(Le paradoxe d'un acteur d'un Kabuki)掲載。澁澤龍彦に賞賛される。
1971年(39歳)3月、『ル・モンド』(Le Monde)に、評論「解放の笑い/寒山からジョルジュ・バタイユまで」(Le rire libérateur de HanShan à Georges Bataille)の掲載により、同新聞社から依頼を受け、「我は他者なりや/川端康成、安部公房、大江健三郎の日本三小説家作品」(4月19日)、「自らの起源を索める民族、日本」(1973年5月13/14日)を寄稿し、在パリ文芸評論家として定評を得る。5月5日、恩師ジャン・グルニエの葬儀。5月、ブルージュ武術協会において「肚について」を講演。6月22日、ベルリンを経て来訪した黛敏郎とともに「パリ憂国忌」[18] を主催する。エール・フランス機内誌『アトラス』10月号に「神道/鏡の霊性」(Le shintô/ La spirutialité d'un miroir)掲載し、フランスに伊勢神宮の写真西行などを紹介する。10月1日、昭和天皇の御来仏前夜、フランスラジオのインタビューで天皇とマッカーサーの会見秘話を語る。10月2日、昭和天皇と皇后を日本大使館公邸にて、在留邦人二百人余とともに迎える。
1978年(46歳)5月、ジャン=マリー・ドロー (Jean-Marie Drot) 監督映画『マルローとの空想の旅日記/日本篇』(Journal de voyage avec André Malraux à la recherche des arts du monde entier, série documentaire 13 épisodes) ロケ協力出演[22]。11月、完成映画は朝日講堂にて『アデュー・マルローの夕べ』にて上映。フランスにおいてもロングランを記録。ドロー監督の同シリーズ全13本は「世界美術映画祭グランプリ」を受ける。マルロー没後2年を記念し出光佐三に提案し、出光美術館においてフランス政府全面協力のもと大規模な『アンドレ・マルローと永遠の日本』展を実現する[23]。
1982年(50歳)、フランスの国営ラジオ、フランス・キュルチュール (France culture) からの委嘱で、『秘境日本を尋ねて』(à la recherche de Japon secret)を構想し、三週間にかけてフランス・キュルチュールのオリヴィエ・ジェルマントマ (Olivier Germain-Thomas) の取材班を、飛騨高山から出雲を経て高野山まで案内する。『豊穣の海』の大神神社から『黒蜥蜴』の舞台中継までの三島由紀夫コースも含む制作は、フランスで大当たりになり、何度も再放送されている[24]。エディション/エルヌ社 (Herne) に「我らの対話、彼岸まで」(Notre dialogue continue à travers l'aude-là)を寄稿。
1984年(52歳)11月、筑波大学において、フランス・キュルチュール (France culture) との共催国際シンポジユム『科学・技術と精神世界』を稲盛和夫全面協力のもと、事務局長を務め実現した。会討議内用は、フランス側では『認識への道』(Les voies de la conscience)と題して、20時間放送されるも、日本では特別放送皆無であった。この会議内容は、日本語版『科学・技術と精神世界』全五巻(1986-1987、青文社)[25] として、フランス語版 『認識への道』(Les voies de la conscience)(エディション/アルバン・ミッシェル社)として出版[26]。
1986年(54歳)、マルロー十周忌にローマのヴィラ・メディチ家で開催された『マルロー詩人?予言者?芸術のメタフィジシィァン?』会議に画家バルチュス、ルーブル美術館館ジャン・レマリー等と招かれて参加。ヴィラ・メディチ家発行アルバムに論考掲載。11月、パリド・ゴール研究所主催『ド・ゴールとマルロー 二重肖像』会議に招かれ、「文武両道の理想/日本におけるド・ゴールとマルロー」(L'idéal de la double voie des arts littéraires et militaires)を発表[27]。『ド・ゴールとマルロー 二重肖像』(エデッション/ブロン社)に、論考収録。
1987年(55歳)4月、モーリス・ベジャール(Maurice Béjart)の新作バレエ『マルロー/神々の変貌』[28] が、テアトル・ド・パリ(Théâtre de Paris)で公演され、プログラムにマルロー「日本における死/竹本忠雄との対話」が掲載。
1988年(56歳)11月、ベジャールの新作バレエ『マルロー/神々の変貌』日本公演[29]。11月、コレージュ・ド・フランスに招待され、『アンドレ・マルローと那智の滝』(André Malraux et la cascade de Nachi)を5回連続講演して大反響を得る[30]。パリ、ジェルヤール社より講義録『アンドレ・マルローと那智の滝』(André Malraux et la cascade de Nachi)[31] が出版される。フランスのレジスタンス戦士で在日記者界のアルフレッド・ズムラーに依頼し、『反日悪宣伝』(L'intoxication anti-japonaise)(長塚隆二他訳)と『アウシュビッツ186416号日本に死す』(竹本、吉田共訳)書き下ろしてもらう。前者は、1992年にスイスのラージュ・ドム社で出版される[32]。
1990年(58歳)10月、リスボンで開かれたヨーロッパ文化センター主催『ヨーロッパと世界/文化の対話』に招待され、マリオ・ソアレス大統領等の前で日本文化の世界的使命を講演。講演録は、英、仏、葡語でジュネーブのEUROPE MODE誌に10月掲載。和訳『りんブックス3 日本の元型』(新星書房)。恩師ジャン・グルニエを偲びエッセイ「月おちて天を離れず」(La lune à son déclin ne quitte pas le ciel)を、ジャック・アンドレ主幹『ジャン・グルニエ手帳』(エデッション/フォル・アヴォワーヌ社)に寄せる。その和文は『新潮』2003年3月に掲載。
1997年(65歳)、仏語原文『マルローとの対話』(André Malraux : entretiens avec Tadao Takemoto)を、エデッション/オ・シーニュ・ド・ラ・リコンヌ (Au signe de la Licone) 社より刊行[34]。
2000年(68歳)9月、東京の倫理研究所で開催された『ユダヤ教文化と神道文化の対話』(L−H陽光出版)に参加、「天八繁雲より降った根源的神聖」(Tha Hand of Yahue and the August Sprit of God Itsu-no-chi-The Holy through the Multilayered Clouds of Heaven)を発表。12月、日英バイリンガル『再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪』(The alleged Nanking Massacre-japan's rebuttal to Chinas's forged claims)(明成社)より刊行。
2001年(69歳)9月、アメリカ同時多発テロ事件直後にパリに小旅行。事件に便乗したフランスの新聞「イスラム・カミカゼは日本特攻よりまし」という記事をみて、極度の歪曲反日主義表明に驚き、新たなる日本の真実紹介が必要と痛感する。アルベールパルマ著『芸道/サムライからマーシャル・アーチストへ』(エデッション/アルバン・ミッシェル社)に序文「騎士道精神いま」(Actualité de l'esprit chevaleresque)を寄せる。
2006年(73歳)5月、皇后の和歌五十三首を仏訳した歌集『セオト/せせらぎの歌』(séoto Le chant du gué)をエディション/シグナトゥラ社 (Signatura) より刊行[36]。平林博大使公邸で出版記念会。シラク大統領をはじめ、大きな感銘を呼び、アフリカまでひろがる。
2007年(74歳)2月、『フィガロ (新聞)』(Le Figaro) に「武士道の戦い」をコメントする。ヨーロッパの「歴史に自由を」運動を調査し、『日本の息吹』4−5月号に報ずる。フランス通信より、『日本の文化人宣言』(La déclaration des hommes culture japonaise)を77人署名で全仏メディア2000社に発信。テキスト全文が、テレビ局アルテのブログに常時掲載され、参照件数1万件以上(2012年)の新記録を更新中。11月8日、ジュネーブ大学(Université de Genève)と日本大使館友の会で「武士道と日本的霊性/武術の場合」を講演。12月31日、5年3か月の2回目パリ長期滞在を終えて帰国。
2008年(76歳)5月、『セオト/せせらぎの歌』(séoto Le chant du gué)にフランスでの出版反響などの後記「祈りとポエジー」を加え、日本で『皇后美智子さま 祈りの御歌』(扶養社)を刊行。6月6–7日、秋田国際教養大学で、『マルロー・コロキアム』開催。記念講演「マルローと日本的霊性」(André Malaux et la spiritualité japonais)を行う。
2014年(81歳)3月、伊勢神宮遷宮年にあわせ、マルローの提唱「ルーツ対ルーツの対話」に基づき、笹川日仏財団の特別協力により伊勢の皇學館大学において『日仏シンポジュウム/ルーツ対ルーツの対話』をおこなう[38][39]。日仏語同時出版『大和心の鏡像/日本と西洋2つの空が溶け合うとき』(勉誠出版)L'âme japonaise en miroir(Médicis Entrelacs)。