2012年自由民主党総裁選挙
2012年自由民主党総裁選挙(2012ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、2012年(平成24年)9月26日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。 概要2009年(平成21年)9月28日に総裁へ就任した谷垣禎一の任期満了に伴い行われた総裁選挙である。野党に転落した前回総選挙から3年を過ぎ、与党・民主党への支持は低迷しており、近い将来に行われる次期総選挙での政権交代が有力視される中での総裁選となったため、「次期首相」候補を選ぶ選挙として大きな注目を集めた。 谷垣の総裁任期が2012年(平成24年)9月30日に切れるため同月中に総裁選挙が行われることは事前に確定していたが、第180回通常国会における社会保障・税一体改革関連法案(消費税増税法案)の取扱いを巡り、2012年(平成24年)8月8日に行われた谷垣と首相・野田佳彦民主党代表、山口那津男公明党代表との3党党首会談において、「関連法案が成立した後、近いうちに国民の信を問う(=衆議院を解散する)」との合意を得た[1]ことで、“近いうち”に行われる解散総選挙と総裁選挙のタイミングを巡ってさや当てが行われたこともあって、なかなか選挙日程が決まらなかった[2]。さらに同時期に行われる民主党代表選挙との日程重複回避を考慮した結果[3]、総裁公選規程ぎりぎりの8月30日にようやく「9月14日告示、同26日投開票」の日程が決定した[3][4]。 立候補者2012年2月10日、清和政策研究会(町村派)会長の町村信孝は会食の場で、同派幹部から「年齢的にも次の総裁選は最後のチャンスでしょう」と水を向けられた際、「その話を含めて会食にお誘いした」と出馬の意欲を認めた[5]。同月下旬には、自らに近い議員数人に「次の総裁選は出たい」と伝えた[6]。 2月26日、安倍晋三は大阪市で開かれた日本教育再生機構主催の集会に大阪維新の会幹事長の松井一郎とともに登壇し講演した[7]。次期衆院選における維新の躍進を見越していた安倍は、総裁選出馬にあたって、維新とのパイプを強調し、党内の求心力を高めるという目論見があった。「保守勢力の結集」を掲げる松井、橋下徹ら幹部も、安倍の接近は維新の党勢拡大にプラスにつながると考えていた[8]。この頃、自民党内の保守派などから安倍の再登板を期待する声も高まっていた。2月27日、参議院議員の山本一太は会見で「命がけで国を変えるために取り組むと示せば、応援する」と表明した[5]。 3月15日、党幹事長の石原伸晃は総裁選に向け、支持議員を集めた「十人会」を開催。谷垣執行部の一員であるため水面下で準備を開始した[5]。 6月3日、党総裁の谷垣禎一はNHKの番組で、総裁選への対応について「自民党を政権に戻すことが私の使命だ。私自身が先頭に立つという決意がなければならない」と述べ、再選を目指し立候補する意向を示唆した[9]。 8月28日、安倍は、町村派の実質的なオーナーである森喜朗の国会内の事務所を訪ね、出馬の意向を伝えた。翌29日、産経新聞などがその旨を報じた[10]。 8月31日、石破茂と町村が出馬の意向を固め、同日中にその旨がメディアで報じられた[11]。 9月2日、石原は鹿児島市で行った講演で、立候補への強い意欲を示した[12]。同日、町村は取材に応じ、同じ派閥の安倍が断念する形での一本化に期待を示した[12]。9月7日、町村は党本部で記者会見し、正式に出馬表明した[13]。 9月7日、谷垣と石原は現職執行部内での対立を避けるべく、3回会談したが、いずれも不調に終わった。9月8日、大島理森副総裁を交えて会談し、一本化をめぐって再協議したが、双方が譲らず、決裂した[14]、谷垣の出身派閥である宏池会会長の古賀誠が谷垣再選を支持しない方針を示す[14]と共に、党の重鎮である森喜朗・青木幹雄が相次いで石原支持を表明した[14]ことなどもあり、谷垣は推薦人の確保すらままならない状況に陥った[15]。 9月10日、谷垣は「党の執行部の中から(自分を含めて)2人が立候補するのは好ましくない」として、総裁選挙不出馬を表明した[16]。同日、石破が正式に出馬表明[17]。 9月12日、安倍が正式に出馬表明[18]。 9月13日、林芳正が正式に出馬表明[19]。同日、麻生太郎が安倍支持を表明[20]。 9月14日、総裁選告示。立候補を届け出たのは、石原の他、元首相・総裁の安倍晋三、前政調会長の石破茂、元内閣官房長官の町村信孝、政調会長代理の林芳正の計5人。総裁選を5名で争うのは過去最多だった2008年以来であった[21]。安倍、石破、石原の3名はいずれも2度目の総裁選出馬である。この時点では石破・石原を最有力とする見方が多く、「石・石対決」などと言われていた[22]。自民党は総裁選のポスターに「日本を、取り戻す。」というスローガンを使った[23]。安倍も同日に行われた出陣式で「この戦いはまさに日本を取り戻す戦いであります」と述べた[24]。 石破は今回から比重が高まった地方票で有利とされていた他[25]、2009年に額賀派を離脱して無派閥となっていたため、「脱派閥」を標榜し、派閥を横断して中堅・若手議員の支持を受けることを期待して立候補した[26]。 有力者の支持を多く集めた石原は多くの議員票を集めると考えられたため、一時最有力とも見られたが、現職総裁に幹事長が「弓を引く」形となったことに対して、麻生太郎は「平成の明智光秀」と批判した[27]。支持派閥や派閥に影響力を持つベテラン頼みの戦いとなったが、額賀派が支持を打ち出したものの、一部議員が安倍・石破支持に流れた他、出身派閥である山崎派からも重鎮議員の甘利明が安倍陣営の選対本部長に就任するなど、派閥が一枚岩にならなかった[25]。 安倍は所属する町村派会長の町村が総裁選への意欲を見せていたこともあり、町村本人や森から立候補を自重するように要請されていたが[28]、その意に反する形で総裁選挙に立候補、町村もそのまま立候補したため、派閥分裂選挙となった。 林は1972年の推薦人制度導入後初の参議院議員からの出馬となった[21]。所属する宏池会の古賀が谷垣不支持を決めたことにより推薦人の確保に目処がつき、次世代での総裁候補としての飛躍も睨んだ立候補となった[29]。 9月18日夕、町村は体調を崩し、都内の病院に検査入院した。周囲には「胸が痛い」と伝えた[30]。町村派としては会長である町村支持が基本方針であったが、このため、町村支持票の一部が安倍に流れたとも報じられた[31]。 9月19日、三宅久之らが結成した「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」は永田町の星陵会館で安倍の総裁選決起集会を開催[32]。決起集会には町村派の議員を含む12人の国会議員が派閥の枠組みを超えて登壇し、激励の挨拶をした[注 1]。また、高村正彦が安倍支持に回った[33]。 投票結果~決選投票での逆転最終的には石破・石原・安倍の3者を軸とした争いとなり、地方票で優勢な石破が1位となることは有力視されていたものの過半数には届かない見込みであったため、2位争い、及びその後の決選投票まで睨んで各陣営は投票直前まで熾烈な争いを繰り広げた[31]。 9月26日、総裁選実施。地方票では石破、議員票では石原が最も多くの票を集め、合計では石破が1位、安倍が2位となり決選投票に持ち込まれた(詳細は後述)。決選投票は議員票のみで行われ、安倍が勝利。決選投票での逆転劇となったのは1956年12月の総裁選以来だった。同日、安倍は新総裁就任の挨拶で「政権奪還は決して私たちのためでも自民党のためでもない。まさに日本を取り戻す。日本人が日本に生まれたことを幸せと感じ、子供たちが誇りを持てる日本を作っていくためだ」と述べた[34]。 党総裁選データ日程
キャッチコピー
選挙票
立候補
推薦人一覧
選挙の結果第1回投票
(無効票:1)
決選投票
(無効票:1)
主な出来事
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク |