藤岡信勝
藤岡 信勝(ふじおか のぶかつ、1943年10月21日 - )は、日本の教育学者・教育評論家。専門は、社会科教育学・ディベート教育。 新しい歴史教科書をつくる会副会長。産経新聞正論メンバー。元東京大学、拓殖大学教授。元日本共産党員。北海道川上郡標茶町出身。 経歴1943年10月、北海道岩見沢市生まれ。川上郡標茶町で育つ。 1962年3月、北海道標茶高校卒業後、1962年4月、北海道大学教養部文類入学。1963年、日本共産党入党。1966年3月、北海道大学教育学部卒業。1971年3月、北海道大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。北大時代を恵迪寮で過ごす。 1971年11月、名寄女子短期大学(現名寄市立大学短期大学部)専任講師。1979年10月、北海道教育大学釧路分校助教授。1981年4月、東京大学教育学部助教授。1991年6月 東京大学教育学部教授。 1997年1月、新しい歴史教科書をつくる会(以下つくる会)を共同で創設。 2002年4月、東京大学大学院教育学研究科教授(総合教育科学専攻て学校教育開発学講座・教材開発学開発研究分野)。2004年4月、拓殖大学日本文化研究所教授。 2007年5月、つくる会会長就任。 2009年3月、拓殖大学を退職。 2011年8月、つくる会理事。2015年10月、つくる会副会長就任。 活動「民青」としての活動学生時代は左翼の運動に傾倒した。小学校6年のときに姉からもらった『世界大百科事典』(平凡社)をノートに写して勉強していたが「その百科事典の近現代史関係項目を執筆していたのは、遠山茂樹という歴史学者をリーダー格とする『講座派』といわれる共産党系グループの学者たちだったんです」「中学二年の時に姉が『お前はそういうことに関心があるようだから』と引き合わせてくれた高校の日本史の先生がやはり共産党の方で、その先生に大きな影響を受けました」と語っている[1]。 1962年、当時ソビエト教育学の拠点[2] だった北海道大学教育学部に入学すると、共産党傘下の民青系に属し「労働問題研究会」でソ連共産党中央委員会編の『ソ連邦共産党史』を読んだりしたという[3]。2年生だった1963年に共産党に入党した。 妻は、北海道教育大学学長で共産党員の教育学者の舩山謙次の娘。舩山の妻、舩山しんは新日本婦人の会札幌協議会代表を務めるなど共産党系の運動で活躍した。舩山謙次の兄、舩山信一はマルクス主義の学者で、治安維持法違反で検挙されたことがある。
保守派への転身1991年に米国に渡る。湾岸戦争を契機に、「一国平和主義」を脱し、司馬遼太郎の著作や渡米体験を通じて冷戦終結後の新しい日本近代史観確立の必要性を感じたという。帰国後に右翼に転向した。1994年4月から雑誌『社会科教育』(明治図書)誌上で「『近現代史』の授業をどう改造するか」の連載を始め、教科書の南京大虐殺の記述を攻撃した。この連載に共鳴した高橋史朗や日本青年協議会のメンバーと「自由主義史観研究会」を発足させる。1995年10月、自由主義史観研究会の機関誌『「近現代史」の授業改革』(明治図書)を創刊[4][5]。 1995年6月自由主義史観研究会が主催する南京事件をめぐるパネルディスカッションで、秦郁彦から慰安婦問題を取り上げることをサジェストされ、慰安婦問題に取組むきっかけになった[6]。 「自由主義史観研究会」の活動に目をつけた産経新聞社は藤岡たちに働きかけ、1996年1月15日、産経新聞のオピニオン面に「教科書が教えない歴史」の連載がスタートした[7][8][4]。同年8月10日、自由主義史観研究会との共著名義で、連載をまとめた『教科書が教えない歴史』(発行:産経新聞ニュースサービス、発売:扶桑社)を出版。 同年12月2日、西尾幹二ら有志と「新しい歴史教科書をつくる会」(略称:つくる会)の結成記者会見を赤坂東急ホテルで開いた。西尾が「この度、検定を通過した7社の中学教科書は、証拠不十分のまま従軍慰安婦の強制連行説をいっせいに採用した」との声明を発表。声明文には藤岡、西尾、小林よしのり、坂本多加雄、高橋史朗、深田祐介、山本夏彦、阿川佐和子、林真理子の計9人が呼びかけ人として名を連ねた[9][10][11]。「つくる会」は1997年1月30日の結成総会をもって正式に発足[12][13]。前述の『教科書が教えない歴史』は全4巻出版され、ベストセラーとなった。 2005年、フジサンケイグループ正論大賞受賞。2007年7月には日本文化チャンネル桜が中心となって在日アメリカ大使館に手渡した「米下院121号決議全面撤回を求める抗議書」に賛同者として名を連ねる[14]。映画『南京の真実』の賛同者である。 2012年8月29日、安倍晋三が前日に森喜朗を訪ね、自民党総裁選への出馬の意向を伝えたことが報道で明らかとなった[15]。同年9月5日、三宅久之、長谷川三千子、金美齢など保守系の著名人28人は「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を発足させ[16]、安倍の事務所に赴き、出馬要請をした[17][18]。その後、藤岡もグループに加入し、メンバーは計37人となった[19]。9月26日、総裁選が実施され、安倍が当選した。 2015年4月には、和田政宗、田沼隆志と共に村山談話の作成実態を解明するための検証プロジェクトチームを立ち上げた[20]。 2019年公開の慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画『主戦場』に出演した。 評価
騒動ジー・オーグループ損害賠償訴訟騒動1997年頃にジー・オーグループ社長の大神源太から社員研修に講演の依頼があり、藤岡の著作に心酔していたという社長に請われ、「こうしたミニコミ雑誌でもそこに読者がいる限り、機会が与えられたなら教科書問題を訴える機会として活用するのが自分の使命ではないか」と考えグループが発行する広報誌に連載を行っていた。しかし、2002年にグループによるマルチまがい商法の被害が問題化し、グループは経営破綻した。被害者弁護団は藤岡に対し、藤岡の論文が掲載されていたことから会社を信用し損害を被ったとして損害賠償を求めて提訴した。ジー・オーグループは、詐欺事件が発覚するまでに日本テレビとテレビ朝日でも商品のコマーシャルを流しており、藤岡も会社の正確について何の疑問も持たなかったという。損害賠償訴訟についても投資勧誘の雑誌だとは知らなかったと説明している。しかし、10月11日付けの週刊朝日に「東大『有名』教授の不覚」などと題する藤岡の責任を問う記事が掲載された。「弁護団が被害者をあおる手段としたものと疑わざるを得ない」と感じた藤岡が弁護団が開設していたホームページをみると弁護団は春から藤岡を訴えるべく被害者の中から原告を募集していたという。藤岡は被害者弁護団団長の山口広について「左翼悪徳弁護士」と非難「私に打撃を与え、歴史教科書運動を潰そうとする政治目的に発する訴訟であることは間違いない。そうでなければ、こんな根拠薄弱な、とうてい勝ち目のない無理な訴訟を起こすはずがない。」と述べており、マスコミに対しても以下のコメントを出している[27]。
東京地裁は2004年、「冊子の投資広告から読者に不測の損害が生じるとは予見不可能、被告にその義務もない」として請求を棄却した[27]。 著作単著
共編著
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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