蔵原惟郭蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年8月11日〉 - 昭和24年〈1949年〉1月8日)は肥後国(熊本県)出身の政治家、教育家。衆議院議員(立憲同志会)、熊本英学校校長。Ph.D. 人物肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)にて、阿蘇神社の直系として生まれる[1][2][3][4][5][6][7]。幼名は三治兵衛。 熊本洋学校と同志社英学校を卒業後、1884年に渡米、留学。次いで1890年に渡英し、1891年に帰国。熊本英学校および熊本女学校の校長を歴任。 1896年、岐阜県で旧制中学校の校長に就任したが、1897年に辞職して上京。帝国教育会主幹として図書館の普及に尽力した。 1900年、政友会創立に参加。日露戦争後は立憲国民党や立憲同志会に所属。 1908年から衆議院議員(1915年まで)。国定教科書に反対し、普選運動で活躍。 1919年、立憲労働義会を設立。労働運動と普選運動の結合を図る。 晩年は共産主義に理解を示し、極東平和友の会の発起人となり、労農救援会や学芸自由同盟などに関与。これは、息子・惟人が戦時中に日本共産党員として獄中闘争を闘うさまを見てのことである。 1949年1月8日、老衰のため練馬区下石神井の自宅で死去[8]。 妻は北里柴三郎の妹しう。次男惟人は評論家。大甥に映画監督の蔵原惟繕や蔵原惟二がいる。 家系図
脚注外部リンク
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